14.町野家の人々
 ここで、祖心の夫町野幸和とその父繁仍の人生についても、語っておきましょう。
 町野幸和の母、つまり繁仍の妻は蒲生氏郷の乳母であり、氏郷と幸和とは乳兄弟という間柄でした。幸和は父繁仍とともには氏郷に仕え、多々の戦に従軍して戦功を納め、氏郷が奥州会津の領主となってからは、猪苗代城・二本松城などの支城を守りました。また、二代秀行が宇都宮に転封されると真岡城の、秀行が再び会津に戻されると白川城の城守をつとめました。また、町野家は足利幕府の問注所執事(公文書の作成や保管をおこなう役人)を務めた由緒ある家柄でしたので、その資質を受け継ぐ幸和を蒲生家は重用したのでしょう。しかし、三代忠郷が早世し蒲生家が改易になると、幸和は失職してしまいます。祖心を同伴して江戸に出た幸和の足跡は次のとおりです。

 江戸に出て15年後、町野幸和は会津をよく知る人物として、新藩主保科正之に付き従い再び会津に帰りました。幕府の旗本として江戸で生きるより、蒲生家三代に仕え村づくり町づくりに励んだ、会津に戻ることを選んだ幸和の志し、再び会津の地を踏んだときの幸和の喜び、分かるような気がします。幸和が会津に下った寛永20年(1643)、この年に春日局が亡くなり、代わって祖心が大奥の総取締役に就きました。夫は会津へ、妻は大奥へ、それは夫婦の分岐点でもありました。
 一方、父親の町野繁仍は幸和に家督を譲ると、近江国蒲生の竹田神社(今の東近江市鋳物師町)に戻ったそうです。繁仍は竹田神社の神主家(安井家)の次男に生まれ、町野家の養子となった人でした。神職を継いだ長兄秀貞が亡くなったため、繁仍が息子(幸和の兄、繁秀)を連れて実家に戻り、跡を継いだというわけです。
 驚くことに、竹田神社安井家には、徳川家康、豊臣秀吉、前田利家、前田利長、春日局の書状など、貴重な古文献が多く伝えられています。それらはおそらく町野繁仍やその一族が竹田神社に伝えたものでありましょう。その中には、高岡の開祖前田利長の直筆の書状が二通も含まれています。書状は「せう将殿」つまり会津少将こと蒲生氏郷に宛てられたもので、「町野左近」つまり町野繁仍が取次の役目をしています。この二通の書状は、当地高岡にとっては、未だ知られざる新発見の文書であり、高岡のふるさと学を一歩進めるものとなりそうです。

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