12.家光上洛
済松寺所蔵「祖心尼肖像」新宿歴史博物館発行『済松寺』より転載
祖心の直筆「大猷院公御上洛詠歌集」
済松寺所蔵
新宿歴史博物館発行『済松寺』より転載
  将軍家光と祖心が初めて出会ったのがいつなのか定かではありませんが、済松寺の寺伝には、ふたりの出会いのエピソードが伝えられています。家光は初めて祖心に会う前日、観音菩薩の夢を見ました。祖心に会ってみると、夢で見た観音様と顔が同じだったので、家光は大変に驚いたというのです。家光にとって祖心は観音様のように穏やかで柔和な女性だったようです。
  この逸話のほかにも、済松寺には家光と祖心との関係を物語るものとして『大猷院公御上洛詠歌集』という古文書が伝えられています。大猷院とは家光の院号です。これは、寛永11年(1634)7月、家光が京都に上ったときに、祖心が同伴して書き記した歌日記で、家光が道中に詠んだ和歌と、東海道五十三次の宿場や名所の風景描写をミックスさせて、祖心がみごとな書体で書き綴っています。 
 ふたりは余程打ち解けた間柄だったのでしょう、家光の傍らに寄り添い、道中の所々で詠まれる歌に耳を傾けては、さらさらと筆を走らせる祖心の姿が浮かんでくるようです。和歌づくりで旅の疲れを癒す家光。歌日記は、家光の緊張を解くための、祖心の工夫だったのでしょう。家光の上洛には春日局も同伴していましたが、祖心は局とはまた違った形で、家光をサポートしていたようです。
 大名の参勤交代制度が確立され、東海道五十三次が整えられたのは三代家光の時代でした。家光は整備間もない五十三次を数万の大行列を率いて京に上り、幕府の威勢を万衆に見せ付けました。「徳川実紀」によれば、いよいよ将軍入洛というとき、この大行列を一目見んと、都鄙隣国の人々が膳所から京都まで建ち並び、熱烈的に出迎えたそうです。前田利常もこの行列を大津で出迎え、将軍に謁見しました。武家と朝廷との力量の差を存分に誇示した幕府は、これを最後に幕末まで将軍の上洛を行うことはありませんでした。

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