10.前田屋敷と尾張屋敷
尾張藩上屋敷跡に建つ防衛省(市谷本村町)
  四代加賀藩主光高の奥方大姫が亡くなったのは明暦2年(1656)。ちょうどその年、尾張徳川家は幕府から市ヶ谷に屋敷地を拝領し、翌年には明暦大火(振袖家事)の難を逃れて光友と千代姫が、初めて市ヶ谷上屋敷に入ったとされています。加賀前田家や尾張徳川家の例にみるように、大名たちは参勤交代制の確立に伴って、幕府から江戸市中に土地を拝領し、大名屋敷を造営するようになりました。尾張様の御屋敷は今の新宿区市谷本村町の防衛省の場所にありました。
 さて、金沢市玉川図書館近世史料館に所蔵されている『前田帯刀宛書状の控』という文献には、尾張徳川家の大名屋敷にまつわる次のような一件が。
 清泰院(大姫)が逝去すると、幕府から拝領した牛込の清泰院屋敷地6万坪が無断で尾張徳川家に譲られていたので、前田利常が老中・松平伊豆守信綱に異議申立てを行った。結局、牛込屋敷地は幕府へ納められることとなり、前田家は代替地として本郷及び駒込の土地6万坪を拝領することになった
 大姫の牛込屋敷地6万坪が前田家の承諾を得ずに尾張徳川家のものになったことに、利常が『合点いかぬ、大姫が拝領した土地は光高のものだ』と憤慨した一件については、『松雲公夜話』や『松梅語園』などにも同様の内容が記されています(『加賀藩史料』)。
穴八幡宮 牛込屋敷はこの辺りにあった
  尾張上屋敷跡「市谷本村町」に隣接して「市谷加賀町」の地名があります。牛込屋敷はこの「市谷加賀町」にあったのであり、上記の一件はこの土地をめぐるトラブルだったのだろう、最初、私はそのように想像していました。しかし、『松梅語園』には、牛込屋敷は「牛込の末高田」にあったと書かれています。また、「牛込穴八幡の辺り」にあり、屋敷が無くなった跡もその辺りを「清泰屋敷」(清泰は大姫の院号)と呼んでいたとも書かれています。つまり、牛込屋敷は「市谷加賀町」ではなく「穴八幡」付近にあったのです。
 尾張徳川家は市ヶ谷上屋敷のほかに、麹町中屋敷、戸山下屋敷などの屋敷地を持っていました。戸山下屋敷は今の地図で申しますと、早稲田通りの穴八幡宮のところを早稲田大学文学部方向に折れた、その先の都立戸山公園の場所にありました。ということは、加賀前田家の牛込屋敷と尾張徳川家の戸山屋敷とは隣接地あるいは同一の土地、ということにならないでしょうか。
 戸山下屋敷は、寛文8年(1668)に尾張藩が、千代姫とゆかりの深い祖心から4万6千坪もの土地を譲渡されたことに始まるとされています。さらに寛文11年には千代姫が幕府から隣接地8万5千坪を拝領し下屋敷は大幅に拡大されました。戸山下屋敷地の中には、大姫の遺領牛込屋敷地6万坪が含まれていたのでは?
 加賀藩の牛込屋敷は今の市谷加賀町にあったというのが定説となっていますが、今一度再検討されるべきではないでしょうか。
尾張藩の戸山下屋敷(左)と市谷上屋敷 『江戸のなりたち1江戸城・大名屋敷』より
戸山屋敷に隣接して穴八幡宮があり、市谷上屋敷に隣接して亀岡八幡宮がある。

「江戸名所図絵」に描かれた、牛込の高田八幡宮(穴八幡宮)


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