9. 会津藩士 町野長門
蒲生家系図
 『史稿』には「(祖心は)京師に如(ゆ)き、蒲生秀行の家宰町野吉知長門守に再嫁す」とあります。済松寺の寺伝にも「(祖心は)その後離縁にて、奥州三春城守町野長門守へ再縁」と伝えられています。
 前田対馬守家と離縁した祖心は、一旦京都に滞在した後、町野長門守(まちのながとのかみ)という人物と再婚したのです。京都に出た祖心は、おそらくは、父兵部が開いた妙心寺雑華院(ざっけいん)に身を寄せていたのでしょう。
 町野長門守は、吉知とも幸和(ゆきかず)ともいい、会津藩主蒲生秀行の重臣でした。町野長門守は、蒲生家と同じく足利将軍家に仕えた近江六角氏の家臣団出身で、父は町野左近幸仍(まちのさこんゆきより)といいました。幸仍の妻が蒲生氏郷(がもううじさと)の乳母だった関係もあり、幸仍・幸和親子は氏郷が日野城主であった頃から仕え、伊勢松ヶ島(現松坂市)、奥州会津と付き従いました。戦場で多くの武功を成した町野親子は会津藩の家老職となり、三春城・二本松城・白川城等の城主を歴任しました。
白川城
白川城 石田明夫氏撮影
 近年の発掘調査で、会津鶴ヶ城の石垣から「町野長門」と刻印された石垣石が発見され、町野幸和が石垣普請に関わったことが知られるようになりました。また、陶工楽吉左衛門常慶 (?〜1635)が京都から会津へ下向したときに、町野幸和が出した触れ書が現在に伝わっています。蒲生氏郷は茶道に造詣が深く、千利休の死後に息子の少庵を会津に保護したことが知られていますが、少庵とも親しぐ天下一ちゃわんやき゛とよばれた吉左衛門が会津
町野長門の刻印が発見された石垣
町野長門の刻印が発見された石垣
石田明夫氏撮影
まで旅行したとき、街道沿いの各駅の村々に伝馬を二頭ずつ用意するようにと、幸和が差配をした伝符状のうち一通が、京都市の樂美術館の「樂家文書」に所蔵されているのです。
  伝符状には「町長門守」の署名と花押が付されており、蒲生家家臣としての幸和の行動の一端をうかがい知れる史料として注目されます。 町野幸和も氏郷に倣い、茶道に造詣の深い人物であったのかもしれません。 
  町野家の屋敷跡は、その箇所が伝承や古地図等から判明しています。会津城下町の鶴が城外郭にあり、七層の天守閣を間近に望むことができる、大通りに面した一町四方の屋敷でした。そこは、会津を上杉が支配したときには、景勝の懐刀といわれた直江兼続が居住した屋敷跡で、大河ドラマ『天地人』の放映中は、毎日多くの観光客が訪れ賑わったそうです。
 
蒲生氏郷時代の城下町下図枠内が町野屋敷
蒲生氏郷時代の城下町下図。枠内が町野屋敷
「白川二万八千三百石町野長門守」と記されている
それから、会津藩主蒲生秀行廟の前に建つ石灯篭は町野幸和が寄進したものです。灯篭は、秀行の死を悼む幸和の心と深さと、家臣団の中での幸和の地位の高さを示しています。
  さて、祖心が嫁いだ会津藩とは、当時どのような情勢だったのでしょうか?
  奥州攻めの後の天正18年(1590)、秀吉は会津42万石を蒲生氏郷に与えました。その後、文禄元年(1592)に蒲生家の会津領は92万石に飛躍しました。が、文禄4年(1595)に氏郷が没した後は家臣団の統一に欠け、勢力争いが絶えませんでした。秀吉は、わずか13歳で家督92万石を相続した鶴千代(のちの秀行)の後見人に、前田利家、徳川家康、前田玄以、浅野長政を定め、また、鶴千代と徳川家康の娘振姫(ふりひめ)との婚姻を決めました。しかし、幼君秀行(ひでゆき)の力では、度重なる内紛をどうにも抑え切れない事態となりました。慶長3年(1598)、秀吉は秀行から会津92万石を没収し、宇都宮18万石に転封させました。このとき、蒲生家の多くの家臣が扶持を放されたのです。中には、前田利長の家臣となった者もありました。
蒲生秀行廟
蒲生秀行廟 石田明夫氏撮影
  慶長3年1月、蒲生秀行に代わり、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津の新領主となりました。これは『天地人』のハイライトシーンにもなっていましたね。ここに、上杉家は佐渡から今の福島県中通りまでにいたる、120万石の広大な領地を支配するにいたったのです。しかし、二年後の関が原合戦で、石田三成(いしだみつなり)に見方した上杉家は没落、戦後はわずか米沢30万石に減封となり、再び秀行が宇都宮18万石から、会津60万石に返り咲いたのです。
 秀行は、このときまだ19歳でしたが、奥方の振姫が家康の娘であったことからの、大抜擢であったと考えられます。旧地会津に戻り、慶長12年には徳川家から松平姓を下賜された蒲生家の喜びも束の間、藩内は岡重政(おかしげまさ)派と蒲生郷成(がもうさとなり)派に分裂して内紛が始まりました。次第に岡重政の勢力が増すと、蒲生郷成の一派が藩を出奔してしまうという事件が起こります。
現在の鶴ヶ城
現在の鶴ヶ城 石田明夫氏撮影
 そして、慶長16年(1611)にはマグニチュード7に推定される巨大地震と、それにともなう大洪水に見舞われ、会津は壊滅的被害を受けます。氏郷が築いた鶴ヶ城の七層の天守閣もこの地震で傾き、穴太衆の石垣も崩れてしまいました。領内では、山が崩れ、地が割れ、河筋が変わり、川が塞き止められてできた湖のために23もの村が水没し、この世から姿を消したと伝えられています。
  この大災害の心労のためか、その翌年藩主秀行は30歳の若さで亡くなり、家督は秀行の長男でまだ15歳の忠郷(たださと)に渡されました。大地震と藩主の急死で安定を失った会津藩では、秀行の奥方振姫と重臣岡重政との対立が激化。慶長18年には、重政が駿府に送られ取調べを受けることに。結果、重政は徳川家康から切腹を言い渡され、そのまま駿府で死に果てたのです。
 祖心が会津に来たのは、まさにこの頃ではなかったでしょうか。会津藩は次々に起こる家臣間の勢力争いを制することもできず、徳川幕府は元和元年(1620)に、国目付を送って会津藩を監視させました。祖心は会津に到着するや、このような激動の渦中に巻き込まれねばなりませんでした。
鶴ヶ城
明治7年の戊辰戦争で、鶴ヶ城が破壊される以前の貴重な写真
石田明夫氏所蔵


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