8. 高岡城と等伯画

 今回の「枯木猿猴図の謎」と題するお話のなかで、わたくし長兵衛が、何より気になっているのは、「枯木猿猴図」が高岡城にあったのかどうかということであります。
 先に富田景周の『燕台風雅』に見たとおり、高岡城の表具には長谷川等伯の絵が描かれていたという言い伝えがあります。そして、「枯木猿猴図」の裏側の墨書には、<この絵はもと、前田利長が所有していた>との書かれているのです。伝説の高岡城の長谷川等伯の絵とは、もしかすると、「枯木猿猴図」であったのでは? と想像が膨らむのはこの長兵衛ばかりではないでしょう。
 利長は高岡入城から1年後に発病し、以降長く辛い闘病生活を送りました。しかも、徳川と豊臣との二大勢力の板ばさみになり、過酷な心労に耐えながら。利長の病状は日増しに重くなりました。そんなある日、高岡城の書院の間で、紫色の病鉢巻をして床についている利長が、やせ衰えた身体をわずかに起こして、「この水墨画をそなたに譲る、余の形見じゃ」と、枕元に祖心を呼び寄せる。利長の背後には、長谷川等伯が親子の猿を題材に描いた堂々たる襖絵、やがて利長に臨終の時が迫る・・・・。なんてこと、さもありなん、って感じです。
 富田景周は、『瑞龍閣記』にも次のように記しています。「(高岡城の)殿閣は、豊王かつて国祖に賜いし豊臣関白秀次の伏陽の遺館を以って之を造る。・・(中略)・・画工長谷川等伯をして水墨の山景を隔に写さしめ、以って之に居すと云う。等伯、通名は久六、能登七尾の人なり。画名籍甚にして、自ら雪舟五世と呼ぶ。実は雲谷等顔の上足なり」
 そして、永山近彰が大正3年(1913)に著した『瑞龍公世家』には、次のような事が書かれています。「瑞龍閣記に云う、画工長谷川等伯をして水墨山景を表具に画かしむと、未だ孰(いず)れか是れなるを知らず」、高岡城には長谷川等伯をもって水墨山水画を表具に描かせてあったということだが、未だそれがどんな絵か分からない。
 ところで、利長公には5人の養女があったそうです。そのなかで、なぜ祖心が選ばれて「枯木猿猴図」を譲られることになったのか、それもひとつの謎です。そこで、長兵衛は、こんな推理をしてみました。
  「枯木猿猴図」には利長以前にもう一人の持ち主があった。それは祖心の実父にして、妙心寺雑華院の開基、牧村兵部利貞。兵部が亡くなり、祖心が前田家に引き取られるとき、彼女の持参品として「枯木猿猴図」は前田家にもたらされた。そして、親友牧村兵部の形見として利長はこれを愛蔵した。利長が亡くなったとき、兵部の遺品「枯木猿猴図」は祖心に譲られ、巡り巡って再び兵部の魂が眠る雑華院に戻されたのである。これも、さもありなん、でしょ?


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