7. 前田対馬守家
先祖由緒并一類附帳
 当世一流の文化人であった祖心の父牧村兵部、その足跡を追いながら祖心の生い立ちを概観してきました。前田利長の養女となってからの祖心はどのような人生を歩んだのでしょうか。それを知る手掛かりは、祖心が嫁いだ前田対馬守家(まえだつしまのかみけ)の家伝と済松寺の寺伝とにあります。
 明治3年に加賀藩が作らせた『先祖由緒并一類附帳』の中の、前田対馬守家の家伝(前田豊著)には、「九世祖母 祖心 実は牧村兵部大輔の娘に御座候処、瑞龍院様御養娘に被成、内記へ被遣候 延宝三年三月死去仕候」と伝えています。また、明治32年に永山近彰が編纂した『加賀藩史稿』(以下『史稿』と略す)の前田対馬守家の家伝には、「可観小説に曰く、牧村氏。名は古那。父兵部大輔利貞は伊勢田丸の城主たり。五万石を食む。文禄の役に従軍し、病みて韓に卒す。初め、利貞、瑞龍公と善し。公すなわちその女を養い、これを直知に配す」とあります。(瑞龍=利長)
 文禄の役があった文禄2年(1592)、前田家では利家の次男利政(としまさ)が秀吉から能登21万石を拝領し、利政と蒲生氏郷(がもううじさと)の娘籍姫(せきひめ)との婚礼が聚楽第で盛大におこなわれました。前田屋敷に秀吉の「御成(=訪問」があったのもこの年のこと。11月には、利家に側室千世の子、猿千代(のちの前田利常)が生まれています。天下は太閤秀吉の全盛時代、秀吉の側近中の側近であった前田利家・利長親子もこの時が全盛でした。父を亡くした6歳 の祖心が前田家に来たのはそのような時、兵部と仲が善かった利長が、彼の遺児を養女として引き取ったのです。
 幼年期の祖心が何処に住んだのか定かではありませんが、候補地として養父利長が居城した越中守山城、富山城、金沢城等があげられるのではないでしょうか?天正13年(1585)に越中を領した利長は、まず守山城に入城し、13年後の慶長2年(1597)に富山城に移りました。そして翌3年には加賀藩主となって本城金沢城に移っています。
  長じて祖心が嫁いだ前田対馬守家とは、後に加賀八家(かがはっか)に列せられる名門藩士の家柄で、家祖は前田長種(ながたね)といいました。
延宝年間金沢城下図
「延宝年間金沢城下図」
(金沢市立玉川図書館所蔵)
金沢城下町の古地図を見ると、前田対馬守家の上屋敷は、金沢城北側の大手門の真向かいに描かれています。今のKKRホテルを含む大手町一帯の広大な土地です。対馬守家は金沢城の大手門の守護する家柄、そう聞いただけでも、その権勢はうかがい知れます。
 長種は尾張の出身で、幼少の頃より信長に仕えましたが、本能寺の変の後は秀吉の傘下に入りました。秀吉に従って小牧長久手の戦いに参戦するも、徳川家康・織田信雄の軍に敗れ父と兄は戦死、長種は降伏して前田利家を頼りました。
 『史稿』によれば、利家は長種を1万石の封で迎え七尾城の守将とし、長女幸(こう)を嫁がせて優遇しました。その後、長種は天正14年(1586)に守山城代、慶長4年(1599)に富山城代、慶長11年には小松城代となり、禄高は2万石に加増されました。また、長種は猿千代(後の三代藩主前田利常)を守山城で養育したことでも知られています。
小矢部川にかかる守山橋と二上山
小矢部川にかかる守山橋と二上山
 守山城下町の跡地、高岡市守山には、「つしまだいら」の小字名があり、長種の屋敷跡と推定されています。そこは守山の本通りと海老坂道との辻にあり、小矢部川にも間近い水運陸運の要所です。
 祖心の夫は、長種の長男で直知(なおとも)といい、美作守(みまさかのかみ)、あるいは内記守(だいきのかみ)、対馬守とも呼ばれました。『瑞龍閣記』(寛政11年刊 冨田景周著)によれば、「(慶長5年より)前田直知をして富城を守らしむ」とあります。「富城」とは、越中富山城のことです。また、前田家の歴史を記した『公譜要略』(文化14年刊)の富山城に項には、慶長4年より「前田美作直知、之を守る」とあります。
  本城を本社、支城を支社に例えるなら、加賀株式会社代表取締役社長前田利長(金沢本社)の従兄弟にあたる前田直知は、富山支社長を務め、祖心は支社長夫人であったわけです。とはいっても、慶長5年(1600)のふたりの御歳は、直知が15歳、祖心が13歳。長種と幸が、若いふたりをしっかり支えていたのでありましょう。『公譜要略』富山城の項には「慶長五年、前田源峯(長種のこと)城代たり」とあります。
今の富山城(富山市)
今の富山城(富山市)
 そして慶長10年、利長は社長の座を弟の利常に譲ると、自らは総勢630名の部下を引き連れて富山支社に移り、代表取締役会長に着任しました。このとき直知に移動命令はなく、『加賀藩侍帳』「慶長十年利長様富山へ召し連れられ候人々」には、家臣630人の筆頭に「五千石 前田美作」の名があります。直知の富山城勤務は継続されました。
 祖心がいつ直知と結婚したのか定かではありませんが、祖心はふたりの子を授かり、長男直正が慶長10年生まれ、次男直成が慶長11年生まれと伝わっていますから、祖心は越中富山で祝言を挙げ二男子を産んだと私は想像しています。
 慶長14年(1609)3月、春先の強風が吹き荒れる富山城下町に火災が発生。いたち川沿いの町屋を火元とする火事は、瞬く間に城下全域を飲み込み、富山城をも焼失させました。「剣の火事」と呼ばれる記録的な災害でした。焼け出された利長は、ただ一軒だけ燃え残った神戸清右衛門宅に避難しました。金沢の御家来衆のことごとくが、利長の身を案じて富山に駆けつけました。一番乗りは、元蒲生家の家臣だった葛巻隼人という藩士だったそうです。
今の高岡城 水濠と本丸(右)
今の高岡城 水濠と本丸(右)
  しばらくして、魚津に仮城を構えた利長は、新城建設の地を関野(今の高岡市)に定めました。そして、加越能三州の農民を総動員しての突貫工事を行い、半年後の9月に利長は高岡城に転居したのです。このとき利長に付き従った家臣434名の名前が、『越中高岡町図之弁』(明和8年・小川八左衛門著)という地元史料に記されています。その筆頭にもやはり「五千石 前田美作」の名があります。直知は利長家臣団の重臣として高岡城にも従ったのです。むろん、祖心も夫と行動をともにしたのでしょう。
 後に直知は父長種から小松城代の職を引き継ぎました。「枯木猿猴図」の裏側の墨書に『小松城主前田美作守利長』と記されていたのは、祖心の養父前田利長と、夫の前田直知が混合し誤記されたものと思われます。
今の小松城天守台跡
今の小松城天守台跡
済松寺の寺伝には「小松之城主、同姓対馬守へ嫁ぎ男子弐人出生、総領美作守、二男志摩と申し候処、其の後離縁にて・・云々」と伝えています。「総領美作守」は家督を継いだ長男直正であり、「志摩」とは志摩守を称した次男の直成です。そして「其の後離縁にて」とあるとおり、祖心は直知と別れることになるのです。離縁に一体どんな理由があったのかは定かではありませんが、『史稿』は「姑と諧(あ)はず」とし、長種の妻幸との不仲を伝えています。
 しかし私が思うに、祖心がキリシタン牧村兵部の娘であったことが、離縁の理由ではなかったのでしょうか? この時代の加賀藩のキリシタン信仰は特別でした。当時、日本人キリシタンの中で、国内外にもっとも有名な人物が、高山右近であったことは周知のとおりです。秀吉によって領地を追放された右近は、加賀藩の預かりとなり26年間を過ごしました。念願だった南蛮寺を金沢城近くの長坂に作り、その南蛮寺では盛大なクリスマスが行われたとも伝わっています。祖心も加賀キリシタンの隆盛の中に身を置き、父から受け継いだ信仰を深めたのではないのか、私にはそう想像されます。しかし、事態は急変し、慶長18年(1613)12月に金地院崇伝がキリシタン禁教令を起草すると、明くる年の1月に右近は加賀藩を追放されました。祖心も禁教の影響を受けて、加賀藩を去ることになったのではないでしょうか。
前田対馬守家系図
 祖心は、次男の直成を連れて離縁したようで、済松寺の寺伝に「祖心 前田対馬守方にて出生之二男、志摩の儀、如何之訳哉召連れ・・・」祖心はなぜか次男志摩を召し連れていた、とありとあります。祖心と離縁した後の直知は、慶長19年と20年の大坂の両陣に従軍しましたが、病を得て引退し、寛永7年(1630)9月に小松で没しました。45歳でした。『史稿』には、「直知卒するに及びて剃髪して祖心と号す」とあります。祖心は離縁した夫直知が亡くなったのを機に出家したというのです。
 長種は寛永年中(1624-1643)に隠居し僧体となって源峰と号しましたが、長男に先立たれすっかり憔悴したのでしょう、すでに82歳の高齢に達していた長種は、息子の後を追うようにして翌8年3月に小松で亡くなりました。さらに、若年ながら小松城代の職を継いだ長男直正は、それが重責となったためか、寛永8年10月、江戸滞在中に27歳の若さで急死しました。2年間に3人の当主を次々と失った対馬守家では、直正の長男でわずか3歳の孝貞が家督と小松城代職を継ぎました。この時、対馬守家を助けたのが、祖心に同伴して家を出た直成でした。直成は三代藩主前田利常の命に従い、加賀藩に戻って、幼い孝貞の後見役をしました。利常としては、自らの育ての親、長種の家系をなんとしても救いたかったのでしょう。こうして、祖心と前田対馬守家との絆は離縁の後も続いたのです。

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