6.祖心と妙心寺
妙心寺雑華院の牧村兵部の墓
妙心寺雑華院の牧村兵部の墓
雑華院殿前兵部
即英運常雄大居士
  ここで、利長から祖心に譲られた「枯木猿猴図」が、なぜ、京都妙心寺雑華院(ざっけいん)に移されたのかをお話しましょう。それは、雑華院が、祖心の父牧村兵部を開基とし,一宙和尚を開山として創建されたお寺だからです。雑華院の名は兵部の法名に因むもので、牧村家の菩提寺として、天正11年(1583)建てられました。先にも触れましたが、一宙和尚は兵部の実弟でした。
 それから80年を経た寛文3年(1663)、祖心は江戸に蔭涼山済松寺を開くとき、自らが開基となり、妙心寺雑華院から水南(すいなん)和尚を招請して開山としました。すなわち、雑華院と済松寺は親子・兄弟のような関係にあるのです。「枯木猿猴図」が雑華院と済松寺に分けて納められたというのはうなづけます。
 また、「枯木猿猴図」は、妙心寺龍泉庵(りょうせんあん)が建替えられたとき、落慶法要の御祝の品として雑華院から龍泉庵に贈られたと伝承されおり、それで今は、龍泉庵にあるというわけです。
さて、雑華院には、水南和尚から春日局に宛てられた祖心の宗旨証文が伝えられています。現代風に訳すると、

 おなあの宗旨について申し上げます。すなわち、この寺はおなあ様の父上牧村兵部大夫が建てられた寺です。寺号を雑華院と申しますのは、兵部大夫の法名でございます。その上、牧村家一門の位牌所であり、年季ごとにおなあ様より、お心ざしを頂いています。おなあ様が禅宗の宗門であることには少しの疑いもありません。そのことを一筆申し上げ、私の名にかけて証明いたします。
妙心寺雑華院宿首座より  
春日局様へ
( 佐佐木杜太郎著『祖心尼抄』参照 )

 この証文によれば、祖心は「おなあ」「おなあ様」と呼ばれていたようです。『加賀松雲公』には「古那」とありましたので、「古那」と書いて「おなあ」が祖心の俗名でした。 
 証文が書かれた詳しい年代は不明ですが、おそらく祖心が大奥に入るときに出されたものと思われます。先に春日局から雑華院に宛て、祖心の宗門証書の提出を請う書状が送られ、その返状としてこの証文が出されました。祖心の実父が、キリシタンであったという記憶はいつまでも彼女に付きまとったのでしょう。キリシタンの子という重い十字架を背負う祖心は、宗門証書を大奥に提出して「わたしは紛れもなく禅宗信者です」と証明し、疑惑を払拭しなければならなかったのです。
 それから、雑華院には、祖心の父牧村兵部利貞の肖像画が所蔵されています。肖像画には南化玄興による賛文があり、

先鋒軍壘  跋扈武門   
徳及兄弟  威振子孫 
ぞ 一曲伊州曲  終後帰牛吼月  牧童村


 武勇の誉れ高かった兵部、その徳は兄弟に及び、その威光は子孫にまでも振り注がれる、兵部の魂は名曲「伊州」を奏でるうちに、やがて牛が月夜にいななく、のどかな故郷の牧童の村に帰り着くと。中国の古典を引きながら、兵部ゆかりの「伊州(伊勢)」や「牧村」にかけての美しい賛文です。
 妙心寺雑華院を訪問し、周辺に眼をやると、美濃の斉藤氏・稲葉家・牧村家にゆかりの深い塔頭がずらり並んでいることに驚かされます。しかも、その中には等伯の絵を持つ塔頭も。

塔頭   開山 創建
東海庵 斉藤利国の室、利貞尼が建立。
妙心寺塔頭の中でも特に格が高い塔頭。
悟渓宗頓

文明16年
(1484)

幡桃院 前田玄以が創建。玄以は美濃国安八郡前田村出身で、斎藤氏の末裔。牧村家・稲葉家と姻戚関係があった。豊臣政権の五奉行の一人で、等伯との親交あり 一宙東黙

慶長6年
(1601)

大通院 山内一豊の菩提寺。一豊は美濃出身で、牧村城に一時寄食した。 南化玄興 天正14年
(1586)
麟祥院 春日局が、子稲葉正勝の死を悼み創建。春日局一族の菩提寺。春日局消息、春日局坐像、春日局像などを所蔵 碧翁愚完 寛永11年(1634)
智勝院 稲葉一鉄の嫡男重通が開いた稲葉家の菩提寺。春日局の父斎藤利三の墓所がある。等伯筆稲葉一鉄像を所蔵 単伝土印

慶長2年
(1697)

雑華院 牧村兵部が創建。牧村家菩提寺。牧村政倫像、牧村利貞像、一宙像を所蔵。かつて等伯筆『枯木猿猴図』を所蔵 一宙東黙

天正11年
(1583)

妙心寺雑華院
妙心寺雑華院
  妙心寺は建武4年(1337)、花園法皇の勅願によって創建された臨済宗寺院ですが、この寺にとって美濃の斉藤氏は特別な家柄でした。室町時代の美濃の守護代、斉藤利国の妻、利貞尼(りていに)が永正6年(1509)に、仁和寺領の広大な土地を買い求め、妙心寺に寄進しました。それまでは開山堂を中心とした規模の寺だった妙心寺が、利貞尼の土地寄進のお蔭で今に近い広さの寺域を持つようになりました。妙心寺には、利貞尼像や利貞尼の寄進状が、今も大切に保管されています。美濃斉藤家の血をひく春日局と祖心は、妙心寺の恩人利貞尼の末裔でもあったのです。 後に改めて述べますが春日局と祖心は、江戸時代の初期に起きた紫衣事件の解決に大きな役割を果たしました。紫衣事件は幕府と公家、それから、大徳寺・妙心寺の両寺院を巻き込む大事件でした。その軋轢の解決のために彼女たちふたりが、互いに手を取り合って動いたのです。その行動の動機は、利貞尼の血を引く女として誇りと、妙心寺の権威を復興させたいという強い使命感にあったのではないでしょうか。

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