4.実の父、牧村兵部
岐阜県安八町歴史民俗資料館
岐阜県安八町歴史民俗資料館
の企画展パンフレット
  済松寺の寺伝に、祖心は「延宝三年乙卯年三月十一日寂」とあります。そして享年は88歳。祖心は現代の日本女性の平均寿命をしのぐ、長寿をまっとうしました。
没年延宝3年(1675)から、誕生した年を逆算すると、彼女は天正16年(1588)の生まれということになります。秀吉の伴天連追放令により領地を没収された高山右近が、加賀藩前田家の預かりの身となったのが天正16年、ちょうど祖心が生まれた年のことです。
 祖心の父 牧村兵部大輔利貞(まきむらひょうぶたいふとしさだ)は天文13年(1544)に生まれ、通称を奇しくも私と同じ長兵衛といい、別に政治とも政吉とも高虎とも称しました。祖心は兵部が44歳のときに授かった愛娘でした。
天王寺屋会記(写し)
天王寺屋会記(写し)
前出パンフレットより転載
 兵部は利休七哲に数えられる有名な茶人で、『江岑夏書(こうしんげがき)』に、「利休弟子七人衆」は一番蒲生氏郷、二番高山右近、三番細川三斎、四番芝山監物、五番瀬田掃部、六番牧村兵部、七番古田織部と書かれています。
 兵部は千利休が信長に仕えていた頃からの弟子でした。津田宗久の茶会日記『天王寺屋会記』には、天正8年(1580)1月14日の夜に安土城で行われた茶会で、兵部が「ユガミ茶碗」を使用したことが記されています。これはユガミ茶碗の初見とされる記事です。「ユガミ」「ヒズミ」という美意識を茶室に持ち込んだ人物といえば、古田織部(ふるたおりべ)の名を思い起こします。しかし、山田芳裕さんの漫画『へうげもの』で人気沸騰中の織部より、はるか早くにユガミ茶碗を用い、「デフォルメ(変形)」という新たな美を茶の湯に加味したのは、祖心の父牧村兵部だったのです。
 平成20年に岐阜県の安八町(あんぱちまち)歴史民俗資料館で、「牧村兵部利貞―新たな茶の美の発見者―」と題する企画展が行われました。牧村兵部を中心にした企画展は、全国でもこれが始めてではなかったでしょうか。
牧村城推定地
牧村城推定地
  安八町牧には、戦国時代に牧村政倫(まさとも)が居城した「牧村城」の伝説があります。兵部は政倫の養子となり、この牧村城を継ぎました。
 企画展は、故郷ゆかりの牧村兵部を通して、安八町の歴史に見つめ直そうと開催され、『天王寺屋会記』や『北野大茶湯之記』などの茶道関連史料の数々や、当時の「ユガミ茶碗」に推定される美濃焼が展示されました。また、兵部ゆかりの地の写真パネルや、兵部の年譜や牧村家の系図も作成されており、大変に興味深い内容でした。
牧村政倫像
牧村政倫像(雑華院蔵・非公開)
前出パンフレットより転載
  牧村兵部については、去年、東京と京都の国立博物館で開かれた特別展「妙心寺」に、その肖像画が展示されるなど、近年、注目度が高まってきているようです。
 ちなみに、大河ドラマ『功名が辻』の主人公、山内一豊が永禄3年(1560)頃、牧村城に滞在していたことが、『一豊公紀』により知られています。織田信長に攻められた一豊の父は、美濃国岩倉城で戦死し、残された15歳の一豊は同国牧村城の政倫を頼りました。おそらく、牧村城で一豊と兵部が同居していたことがあったのでしょう。 
牧村兵部像
牧村兵部像(雑華院蔵・非公開)
前出パンフレットより転載
  それから、兵部は高山右近にすすめられ、天正12年(1584)頃に入信したキリシタンでもありました。千利休の弟子にキリシタンが多かったことはよく知られていますが、兵部もそのひとりでした。宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)には、秀吉に「随行する騎馬隊の隊長、牧村」なる人物が登場します。これが兵部です。 
 フロイス曰く、兵部は親友の高山右近に勧誘され熱心に説教を聴くようになり、入信を決意しました。受洗後、彼は妻をひとりにすることを決意し、多くの悪習とも決別して人に模範を示したそうです。また社交性に優れ、万人に愛された兵部は、その説得力を生かして布教にも協力し、彼の全家臣をキリシタンにする決意であった、
田丸城天守台址
玉城町の田丸城天守台址
とフロイスは記しています。また、同書には「日野の蒲生の親友であり、馬廻衆の頭」が、右近とともに蒲生氏郷を説得し、キリシタンに入信させたとありますが、この「馬廻衆の頭」も兵部だといわれています。
 武将としての兵部は、『信長公記』『蒲生氏郷記』などによりますと、はじめ信長に仕え、天正2年(1574)の伊勢長島の一向一揆征伐や、同5年の紀伊雑賀攻め、同6年の摂津有岡城攻めなどに参陣しました。天正10年の本能寺の変以後は、 秀吉の家臣となり馬廻衆として活躍し、 小牧長久手の戦いや四国攻めにも従軍しました。そして、天正13年には、それらの戦功をもって従五位下兵部大輔に任ぜられ、同15年の九州攻めでは、蒲生氏郷、前田利長とともに、難攻不落といわれた岩石城を落城させています。
岩手城址
岩手(出)城址
前出パンフレットより転載
  秀吉は天正18年、伊勢国多気・度会(わたらい)の二郡の内2万余石と一城を兵部に与えました。その城について、済松寺の寺伝は、「伊勢国田丸城」とし、『加賀藩史稿』(明治3年・永山近影著)は「兵部大輔利貞、伊勢国田丸の城主たり。五萬石を食む」としています。しかし、田丸城(今の三重県度会町田丸)というのは誤りで、正しくは岩手城(今の三重県度会町岩出)の城主であったようです。『寛政重修諸家譜』には「(兵部は)、牧村と称し伊勢国岩手城に住し、豊臣太閤につかふ」とあります。
 田丸城は室町・戦国時代には伊勢国の北畠家の庶流田丸中務少輔直昌(なおまさ)の城でしたが、天正3年(1575)に、織田信長が南伊勢を攻めたときに、信長は和睦策として息子織田信雄(おだのぶかつ)を北畠家の養子にして、信雄を大河内城から田丸城に移しました。これによって、田丸城を追い出された田丸中務は、田丸城から4キロほど離れた所に新しい城を築いて移り住みました。これが岩手城です。やがて南伊勢は秀吉の手に移り、天正12年、蒲生氏郷が秀吉から南伊勢のうち12万3千石を賜って、松ヶ島城(後、松坂城に改名)に入った頃、田丸中務は氏郷の妹と婚姻を結び、氏郷の与力となりました。そして、秀吉から1万5千石を賜って、再び田丸城に返り咲いたのです。その後、天正18年(1590)に蒲生氏郷が奥州会津に転封となると、田丸中務も奥州に移り、須賀川城3万石の城主になりました。そして、南伊勢は、岩手城主に牧村兵部、松坂城主に服部一忠、亀山城主に岡本良勝の三者支配となり、田丸城は稲葉重道(牧村兵部の義父)の預かりとなったのです。 
 なぜ、「兵部は田丸城主」と伝わったのかといえば、岩手城は田丸城から極近い場所にあり、しかも築城から25年後の慶長5年(1600)に破却されたので、後世には、田丸城の記憶しか伝わらなかったのかも知れません。あるいは、後に田丸城主となった、兵部の義弟稲葉道通(みちとお)と、兵部の記憶が相交ぜになったものかと思われます。
 そして、『太閤記』には、文禄元年(1592)正月から始まった朝鮮出兵で、石田三成とともに船奉行をつとめ、外地に布陣した兵部の姿が語られていますが、文禄2年7月10日、惜しくも彼の地にて病死したのです。彼は49歳でした。
 以上のような、牧村兵部の足跡から考えると、祖心は天正16年に美濃国牧村城で誕生し、天正18年、2歳のときに伊勢国岩手城に移り、文禄2年に父が戦死した後、6歳のときに前田利長に引き取られ、養女として育てられたものと思われます。

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