2.腕切りの猿
 「枯木猿猴図」の裏側の隅には、妙心寺雑華院(みょうしんじざっけいん)の第11世、暘山楚軾(ようざんそしょく)が記した墨書があります。現代風に訳してみます。
 この枯木に手長猿が描かれた双幅は、長谷川等伯筆である。もとは加賀藩小松城主、前田美作守利長公の所蔵の屏風であった。ある夜、利長公が恍惚として寝入っているとき、猿の手が利長公の髪を掴んだ。利長公は短刀を握りこれを斬った。斬ったのは絵から抜け出した猿の手であった。よって、この絵は「腕切りの猿」と称されるようになった。
 利長公の没後、絵は江戸の蔭涼山、祖心尼公に寄付された。そのうち一双は当院(妙心寺雑華院)に納められ、蔭涼山に留められた腕切りの一双は、その後焼失してしまった。私がこうして掛け軸の双幅に改めたことを記しておくことによって、後世の者たちもその由来を知るであろう
天保六年十一月 楚軾記

枯木猿猿図
枯木猿猴図 裏書
  妙心寺雑華院の住職であった楚軾(そしょく)和尚は、天保6年(1835)11月に、寺に伝わる等伯筆の屏風画を掛け軸にリフォームしました。そして、後世この絵の由来が分からなくなっては困ると、わざわざ一筆を記したのです。なんと、几帳面な和尚さんでしょうか。お蔭で私たちはこの絵が、元は高岡の開祖、前田利長の所有であったと知ることができるのです。
 それにしても奇怪な逸話を持つ絵です。絵から抜け出た猿が、うとうとと眠っている利長の髪の毛をキュッとかみ、驚いた利長は「ええいっ、曲者め」と床から跳ね起きて、短刀でもってその手をバッサリと切り落とした。それでその絵は「腕切りの猿」と呼ばれるようになった・・・・。
 幼年の雪舟が涙で描いた絵が生きたネズミとなったという有名な逸話を彷彿とさせるようなこの話、自ら雪舟五世を標榜していた等伯にふさわしい逸話といえるのかも知れません。腕切りの猿のほうは蔭涼山に保管されていて、焼失してしまったと記されていますが、それは一体どんな絵だったのでしょう、見てみたかったですね。
 面白いことに、高岡市には「枯木猿猴図」らしき絵が描かれた等伯画が伝わっています。ややこしい言い方ですが、それはどういう事かといいますと、高岡市利屋町(とぎやまち)の大法寺に所蔵されている長谷川等伯画「三十番神図(重要文化財)」に描かれている神々のひとつ、「大比叡大明神」の背景には、右図のように「枯木猿猴図」のお猿さんと少々ポーズの異なる手長猿が描かれています。幻の「腕切りの猿」は、ひょっとするとこんな感じだったかも。
大比叡大明神
大法寺「三十番神図」の
「大比叡大明神」
大法寺の等伯仏画は、高岡市美術館に寄託され調査研究が進められている
  この絵には、等伯が若い頃に使っていた「信春」の朱印と「長谷川又四郎廿八筆」「永禄丙寅」(永禄9年・1566)の墨書が記されています。美術研究家の間では「枯木猿猴図」が描かれたのは、等伯が60代の頃と推定されていますが、永禄9年に28歳の等伯が描いた「三十番神図」に「枯木猿猴図」と似た絵が描かれているっていうのは、一体どんな意味なのでありましょう・・・・ね、不思議や、不思議。
 ちなみに、大法寺には、ほかにも重要文化財指定を受ける「鬼子母神十羅刹女像(きしぼしんじゅうらせつにょぞう)」、「釈迦多宝如来像(しゃかたほうにょらいぞう)」、「日蓮聖人像(にちれんしょうにんぞう)」などの等伯筆の仏画が所蔵されており、これらには「信春」印と「永禄7年」の年記が入っています。大法寺の等伯仏画は今回の「没後400年展」にも出品されていたので、印象に残っているという読者の方も多いのではないでしょうか。大法寺は、高岡開町の時代に、放生津(今の射水市)から高岡に呼び寄せられた、日蓮宗寺院です。放生津は、等伯の出身地七尾と、富山湾を往来する地方船(じかたぶね)で結ばれた湊町でした。
 それから、わが高岡にはほかにも、長谷川等伯にまつわる、とっておきの話があるので紹介しましょう。それは高岡城にあったという等伯画の伝説です。加賀藩士富田景周の『燕台風雅』には「我が国祖、嘗(か)って等伯をして、豊王より賜る所の関白秀次公の伏見の故館のひょうぐ(ひょうぐ)を画かしむ。之を越中高岡城に移す」とあります。つまり、初代前田利家がかつて豊臣秀吉から賜った関白秀次の居館の表具に、長谷川等伯を起用して絵を書かせた、それを高岡城に移した、というのです。もしかすると、高岡城に描かれた等伯画とは「枯木猿猴図」だったのでは? 腕切りの猿の物語の舞台は高岡城だったのでは? 長兵衛のような、気ままな郷土史愛好家には、たまらなくワクワクするお話です。
 なお、能登・越中には、高岡市大法寺のほか羽咋市の妙成寺、七尾市の本延寺、富山市の妙伝寺などに等伯の仏画が伝えられています。これらはいずれも日蓮宗のお寺であり、等伯と日蓮宗との強い結びつきを物語っています。
 今から400年前、二代前田利長によって高岡城下町が開かれたとき、町の北辺(今の大坪町から古定塚にかけての地区)には、大法寺をはじめ、本陽寺、妙国寺、本光寺、長蓮寺、立像寺、妙伝寺、法光寺、計8ヶ寺もの日蓮宗寺院が並べ置かれました。利長時代の高岡町と日蓮宗との結びつきを考えるに欠かせない事例です。京都を再開発した豊臣秀吉は、京都北辺の船岡山近くに「寺の内」と呼ばれる日蓮宗寺院街を置きましたが、利長はこれに倣い、高岡町の北辺に日蓮宗寺院を集め寺院街を作りました。つまり、京都の「寺の内」にあの巨大な等伯仏画「涅槃図」を持つ日蓮宗本法寺があるように、高岡の北辺の寺院街には等伯仏画を持つ大法寺が配されたのです。(ただし、この寺院街は三代利常の時代に行われた往還道の付け替えに伴い、南側の町屋地区の各所に移転されています)
 さて、「枯木猿猴図」の裏側の墨書には不可解な一文が書かれています。「加賀藩小松城主、前田美作守利長」とありますが、前田利長が小松城に在城したという記録はありませんし、また、利長は通称「羽柴肥前守(はしばひぜんのかみ)」であり、「美作守(みまさかのかみ)」と称したことはありませんでした。墨書の信憑性が問われるところです。
 この墨書が書かれたのは、利長の時代から200年以上も時代を下った天保6年。長い年月のうち伝承に正確さが失われたのでしょう。この件については、後に詳しくお話しますが、小松城代を務めた前田美作守直知という人物と利長公とがゴッチャになっていると考えられます。
  そして、利長の没後にこの絵を譲られた「江戸蔭涼山の祖心尼公」とおっしゃる尼さんは一体誰なのでしょうか? この尼さんと利長との関係は? なぜ、屏風画の片方が妙心寺雑華院に伝わったのでしょうか? なぜ、今は龍泉庵の所蔵となっているのでしょう? 続いて、これらの点についてお話しましょう。

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