11. 山鹿素行
山鹿素行碑
町野屋敷跡に建つ山鹿素行石碑
 祖心が住んだ町野幸和の屋敷には居候がいました。それは、山鹿流兵学の祖であり、儒学者としても有名な山鹿素行(やまがそこう・1622−1685)の一家です。
 素行が書いた『山鹿家譜並年譜』や『配所残筆(はいしょざんひつ)』には、祖心についての記述が随所にあり、祖心の行動を知れる格好の史料です。
 素行の子孫は代々が、平戸藩に仕える藩士だったため、その膨大な著作群は、維新後も平戸市内の「積徳堂(山鹿文庫)」に伝えられていましたが、近年、御子孫の意向により東京の研究機関に寄託され、研究調査が進められています。なお、素行の著作群のうち「山鹿素行著述稿本類」と呼ばれる一群は、国の重要文化財の指定を受けています。
 昭和56年に発刊された、『山鹿素行』(原書房)は、素行の御子孫で平戸市長を五期も勤められた山鹿光世氏の著作です。付録として巻末に「祖心尼抄」(佐佐木杜太郎著)を加えておられ、今回の取材に大変に役立たせていただきました。
 山鹿家の出自は九州の「筑前山鹿岬」だといいます。源平合戦の壇之浦合戦の時に、先祖山鹿秀遠が平盛国(関氏の祖)に従い伊勢に移り住み、代々が関氏と姻戚を結び土着しました。素行の父貞以は伊勢亀山城主の関一政に仕え、主家の転封に従って、白河(福島県)、川中島(長野県)、亀山(三重県)などを転々としましたが、家来同士の刃傷沙汰から解雇となり、会津の町野幸仍(幸和の父)を頼りました。貞以と幸仍は旧知の仲でした。蒲生家への仕官を願っていた貞以でしたが叶えられず、町野家に寄食していました。貞以は町野家では優遇され、幸仍の3万石の封の中から250石を貰って、安定した暮しをしていたそうです。やがて、貞以は武士を棄て町医者となりました。山鹿文庫に伝わる古文書の中には、貞以が使用した医学書や、曲直瀬道三(まなせどうざん)から貞以に宛てられた書状があるといいますから、彼は相当の名医であったのかも知れません。
 元和8年(1622)に、素行は会津で生まれました。素行の『年譜』には「元和八年壬戌八月十六日生奥州会津」とあります。素行の生まれ場所は定かではありませんが、おそらく、町野屋敷で生まれ、今も地元の方たちが「直江清水」と呼んでおられる伝説の井戸の水で産湯につかったのでしょう。現在、町野屋敷跡には『山鹿素行生誕地』と書かれた立派な石碑が建っています。これは、大正15年に建てられたもので、撰文は平戸藩主の血を引く松浦厚(まつらあつし)伯爵が作り、題字は日本帝国海軍の東郷平八郎元帥の揮毫です。
 会津での素行の様子を知る史料は見当たりませんが、素行の『配所残筆』に「六歳より親申し付けて、学仕らせられ候。不器用にて候て、漸(ようや)く八歳の頃に、四書・五経・七書・詩文の書、大方読み覚え候」と書いています。自らを「不器用」という素行の謙遜とは裏腹に、彼は神童というべき驚異的な優秀児童であったようです。そして、それはおそらく、祖心から受けた英才教育の賜物ではないでしょうか。祖心は古典に明るく、仏法に通じ、高い教養を備えた女性でした。素行が書き記している祖心についての記述には、どれも敬意と感謝の念がにじみ出ています。祖心は我が子同然に素行をかわいがり、また手塩にかけて厳しく育てのでしょう。
 さて、祖心が会津藩に来ておよそ10年を経た寛永4年(1627)、幼君であった藩主忠郷は25歳となりました。ところが、この年の正月4日に忠郷が江戸藩邸で急死してしまいます。そして、これを機に蒲生家の会津60万石は没収となり、会津には伊予松山から加藤嘉明(かとうよしあき)が新たな藩主となって入りました。
 主を失った町野幸和は浪人となり、仕官先を求めて江戸に出ることになりました。むろん、祖心も同伴したのでしょう。そして、この時、居候の山鹿素行親子も江戸に出たことが、素行の『年譜』に「正月、松平忠郷下野守卒す。此の年、会津は加藤氏賜る。二月、奈須に移り、ついに江戸に至る」と書かれていることから分かります。
 後にもお話するように、素行は江戸で祖心を頼り続けました。そして、素行がその才能を伸ばし、よりよい仕官が出来るよう、祖心はあらんかぎりの伝手を活用し支援したのです。素行が林羅山や沢庵和尚や隠元和尚に出会うチャンスを得たのも、将軍家光に謁見できたのも、江戸城の老中たちや大奥の春日局と面識を持てたのも、みな祖心の仲介があったからにほかなりません。
 もし、祖心が町野幸和に嫁がなかったら、山鹿素行が後世にその名を残すことも、赤穂浪士が討ち入りすることも、忠臣蔵でお馴染みのあの山鹿太鼓も、この世に存在することがなかったのかも知れません。

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