10. 会津に来たのはなぜ?

 ところでなぜ、加賀藩主前田利長の姫様が、かくも遠く離れた会津藩の家臣のもとに嫁ぐことになったのでしょう? これも大きな謎です。それには、いくつかの理由が想像されます。
  ひとつに、蒲生家と前田家との縁戚関係が縁となったのではないでしょうか? 蒲生氏郷の正室冬姫(ふゆひめ)と、前田利長の正室永姫(えいひめ)は、ともに織田信長のむすめでした。つまり、氏郷と利長は信長を父とする義兄弟だったのです。そして、氏郷のむすめ籍姫(せきひめ)が前田利家の次男利政(能登領主)に嫁ぎ、蒲生家と前田家との縁戚関係は一層深まりました。蒲生家と前田家には家臣の出入もあり、例えば加賀藩のお抱え穴太衆(石工)の「奥泉」というものが蒲生家の家臣となり、みごとな鶴ヶ城石垣を作り上げています。前田家としては、蒲生家の苦境を傍観してはおれず、才覚に長けた祖心を会津藩の重臣町野幸和に嫁がせ、補佐役となるよう図ったのではないでしょうか。奥向きからの補佐も政権の安定には重要です。祖心は後に江戸城大奥の取締役となりますが、会津鶴ヶ城の奥屋敷での経験が活かされていたかも知れません。

  生没年
牧村兵部 1546〜1593
高山右近 1552〜1615
蒲生氏郷 1556〜1595
前田利長 1562〜1614

  またひとつに、牧村兵部、前田利長、高山右近、蒲生氏郷の深い親交が、縁となったのでは? 彼らは千利休の弟子であり、みな一流の茶人であったことは周知です。また、兵部と氏郷は右近の勧めで洗礼を受けたキリシタンであり、利長もキリシタンには好意的でした。フロイスの『日本史』には、兵部が全家臣をキリシタンに改宗させるつもりであったと書かれていますが、蒲生家や前田家でも、主の影響を受けキリシタンに改宗した家臣が多かったのです。蒲生氏郷の嫡男秀行もキリシタンには好意的であったといわれ、岡越後(左内)という熱心なキリシタンを中心に会津藩ではキリシタン信仰が高まりました。祖心は、父兵部が生前に紡いだキリシタンたちとの縁を頼り、会津に嫁いだのかも知れません。
地図  また、町野幸和の父幸仍(ゆきより)は、前田家の人々と面識を持っていたようです。文禄2年に執り行われた前田利政と籍姫との挙式の際に、蒲生氏郷の名代を務めたのは、蒲生四郎兵衛(郷安)と町野幸仍でした。『國祖遺言』によれば、籍姫の輿入れは、「長持75丁、のり物28丁、其外いろいろ」が行列する大掛かりなもので、「じゆらく立ちはじまりての大なる御祝儀」であったと伝えられています。輿入れを引率した、四郎兵衛と幸仍のふたりには、前田利家から直々に褒美の品が下されました。すなわち、四郎兵衛には「うのつの刀、小袖、金子五枚」、幸仍には「わきさし、小袖二重、金子三枚」が与えられたと『國祖遺言』に記されています。
  ちなみに、町野幸仍は、近江の竹田神社(今の蒲生町鋳物師町竹田神社)の神主家の出身でしたが、町野家の養子に入り、蒲生家の家臣となりました。天正12年に蒲生氏郷が松ヶ島城を領したときには、伊勢亀山城に配され、山田奉行を務めて伊勢神宮の維持管理を任されたそうです。幸仍は後に長男の幸和に家督を譲ると、次男を引き連れ竹田神社に戻りました。
  そして、牧村家と伊勢の土豪たちとの地縁です。祖心の父牧村兵部は、南伊勢の多気、度会郡のうち2万石を領しましたが、蒲生家家臣には、伊勢の土豪の出身者が多く、彼らは牧村兵部と地縁的のつながりを持っていたことが予想されます。
 蒲生家は日野の土豪であった頃から伊勢国との地縁が深く、蒲生賢秀(氏郷の父)は、自らの姉妹を神戸友盛(今の鈴鹿市神戸を本拠地とした土豪)や関盛信(今の関町を本拠地とした土豪)ら伊勢国の有力者に嫁がせ和睦を図っていました。それから、蒲生氏郷の時代には、亀山城主だった関一政や、田丸(後に岩手)の城主だった田丸中務直昌が、氏郷の配下に降りています。彼らは伊勢国松ヶ島城主となった氏郷の姉妹を娶り、蒲生家と縁戚を結んだ与力大名(自分より有力な戦国大名に加勢した大名)で、この関と田丸のふたりが氏郷時代の蒲生家臣団の両輪であったといわれています。
 『会津鑑』に見る蒲生忠郷の家臣禄高には、高禄の筆頭が「三万石 三春城主 田丸中務(直昌)」次に「二万八千石 白川城主 町野長門守」があげられています。田丸中務は、蒲生家が宇都宮18万石に転封されたときに一旦、蒲生家を離れて豊臣秀吉に仕えました。慶長5年の関ヶ原合戦には石田三成に属して戦かいましたが敗戦し、越後に流されてしまいました。しかし、蒲生家が会津に戻されると、慶長7年に田丸は再び蒲生家の家臣になりました。そして、田丸の地位は、忠郷時代においても「三万石三春城主」と確固たるものだったのです。伊勢出身で蒲生家の有力家臣だった田丸中務と、祖心との関係も知ってみたいものです。
 ちなみに、田丸中務の長男は田丸兵庫頭(ひょうごのかみ)直茂といい、前田利長の招請に応じて加賀藩士となりました。今も金沢市に「田丸町」の地名があるのは、その地に田丸兵庫頭が住まいした名残だと言い伝えられています。田丸兵庫頭は後に、加賀藩の支藩である大聖寺藩の藩士となっています。


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