二宮金次郎のふるさと |
戦前はどこの小学校にも銅像か石像の金次郎さんがありました。銅像の二宮金次郎像は、戦時中の金属供出でその多くが失われましたが、戦後また改鋳され今も多くの小学校に金次郎の銅像は見られます。実は「日本で一番数の多い銅像」とも称せられる二宮金次郎の銅像のルーツは高岡にあったのです。
二宮金次郎像は、一説には明治43年鋳金師の岡崎雪聲氏が最初に制作し、その柴を背負っている姿を明治天皇がたいそう気に入られたのが始まりだともいいます。金次郎が学校教育と結びつくようになったのは、尋常小学校の修身科教科書で、孝行・学業勤勉・家業手伝い・倹約・奉仕などの徳目を守り生活する幼年の金次郎が、子どもの模範として取り上げられたのがきっかけでした。教育勅語の下に行なわれた教育に二宮金次郎はうってつけの人物だったのです。さらに明治44年に出版された唱歌の国定教科書には「手本は二宮金次郎」という歌が載せられました。
芝刈り縄なひ草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、
兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。
骨身を惜まず仕事をはげみ、夜なべ済まして手習読書、
せはしい中にも撓まず学ぶ、手本は二宮金次郎。
家業大事に費をはぶき、少しの物をも粗末にせずに、
遂には身を立て人をもすくふ、手本は二宮金次郎次郎。 |
このような金次郎のイメージを具現化したのが石像や銅像の二宮金次郎像でした。商魂たくましい高岡商人たちはいち早く金次郎に着目して銅像製作を始め、昭和6年頃には高岡に金次郎銅像の注文が殺到したそうです。
水漏れのクレームに嘆きながら花瓶を作り続けてきた高岡の鋳物業者は、大正3年「高岡銅像論」で井上江花が提唱したように銅像で商売ができぬかと、虎視眈々(こしたんたん)とそのチャンスを待っていました。しかし、銅像の需要は少なかった。そこへ、報徳思想を背景とした二宮金次郎ブームが巻き起こり、大量需要を伴った銅像生産の好機がめぐってきたのです。井上が唱えた、「人物像を大いに作って人格教育・社会教育に役立てよ」の弁は、まさにこの時具体化を見ました。
二宮金次郎像は昭和11年ごろをピークとして全国の小学校で競い合うように建立されました。この二宮金次郎像の大ヒットにより、高岡の鋳物業は当時の不振を払拭したとも言われています。高岡は、二宮金次郎像によって「銅像の町」になったといっても過言ではなく、高岡の銅像産業は、ここにひとつの大きな転換期を迎えたのです。
井上章一『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』(新宿書房)には金次郎像が高岡で作られた話が出てきます。
「高岡市は、能登半島の付け根にある。北陸では有数の商工都市である。銅器の街としてもよく知られている。じじつ、街のあちらこちらに、さまざまな銅像が置かれている。高岡古城公園の銅像群は、なかでもハイライトになる光景だといえるだろう」(第五章 銅像の街)
井上章一氏の調査によれば、高岡で最初に金次郎像を手掛けたのは平和合金のご先祖藤田太四郎さんで、昭和の3・4年頃から製作を始め、原型は荒井秀山が作りました。その2.3年後には他の業者が真似て作り始めしたが、秀山の金次郎像は、幼年らしさがよくでており、しかも背負った柴一本一本がみごとに重なり合っていて違いは一目瞭然でした。藤田さんは、柴の部分を蝋型鋳造で繊細に表現しました。鋳物の町高岡ならではのこだわりです。この柴一本一本が重なり合っている「元祖金次郎像」は、今も平和合金で作り続けられています。
金屋町鋳物公園には、高岡銅器研究会創立30周年を記念して平和合金が寄贈した二宮金次郎像が設置されています。碑文には次のように書かれていました。
「・・・(略)昭和の初め、報徳思想に基づく自力更生運動が全国的に推進されるようになり、この勤倹力行の少年像が全国の小学校の校庭に建立されるようになる。時代にもよるが、その殆ど全てが高岡で製作されたものだったのである。二宮金次郎は、小田原の人だった。しかし、「金次郎像」のふるさとは、わが高岡なのである。・・・・」
また、飛見丈繁の『高岡鋳物史話』には次のような回顧話が記されています。
「編者(飛見)は昭和6年中、長女澄子や次女藹子と謀ってその母校たる横田小学校の改築を記念して二宮金次郎銅像をその母校に建てておいた。その頃富山県内では金次郎銅像の建設がなかったはずだが、これが報徳思想の鼓舞に一役を担う事となり、全国各地から銅都高岡に金次郎銅像の注文が殺到する一因ともなった」
飛見翁の弁をそのまま信じるならば、飛見家の人々が寄贈した横田小学校の金次郎像は、銅像の町高岡にとって記念すべき一作ということになります。ただし、今の横田小学校の金次郎像は改鋳されたものであり、初代の像は戦中の金属供出で失われています。
明治から昭和初期にかけて高岡で作られた主な銅像(県内のみ)
名称 |
設置場所 |
原型師 |
鋳造 |
年代 |
備考 |
神武天皇 |
氷見朝日山公園 |
大塚楽堂 |
喜多万右衛門 |
明治40年 |
現存 |
神功皇后 |
入善 |
大塚楽堂 |
山岸栄次郎 |
明治44年 |
現存 |
国方林三 |
高岡工芸高校 |
大塚楽堂 |
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昭和13年 |
供出改鋳 |
日蓮上人 |
伏木 |
大野朗 |
山下清右衛門 |
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供出 |
藤井能三 |
伏木 |
荒井秀山 |
森田松次郎 |
大正11年 |
供出 |
橘林太郎 |
高岡守山 |
荒井秀山 |
道具幸太郎 |
昭和2年 |
供出 |
大場庄三郎 |
高岡川原町 |
荒井秀山 |
山岸栄次郎 |
|
供出 |
弘法大師 |
高岡繁久寺 |
荒井秀山 |
山岸栄次郎 |
|
供出 |
広野順之助 |
下新川 |
荒井秀山 |
高坂亀次郎 |
|
供出 |
橋爪藤吉 |
八尾町 |
荒井秀山 |
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昭和3年 |
供出 |
高岡大仏 |
高岡 |
中野双山 |
般若庄三郎 |
昭和8年 |
現存 |
長井清吉 |
上新川郡浜黒崎 |
中野双山 |
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大正9年 |
供出 |
稲垣示 |
高岡古城公園 |
中野双山 |
山岸栄次郎 |
大正3年 |
供出 |
堀川大尉 |
富山 |
中野双山 |
今森伊平 |
|
供出 |
広瀬鎮之 |
氷見 |
中野双山 |
森田松次郎 |
|
供出 |
長谷川庄蔵 |
富山 |
中野双山 |
岩坪礒次郎 |
昭和2年 |
供出 |
林勢松 |
下新川郡 |
中野双山 |
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大正13年 |
供出 |
関義平 |
高岡工芸高校 |
中野双山 |
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昭和5年 |
供出改鋳 |
米沢紋三郎 |
入善 |
松村秀太郎 |
高岡工芸学校 |
大正9年 |
供出 |
新松弥三郎 |
高岡工芸高校 |
松村秀太郎 |
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昭和5年 |
供出改鋳 |
陸田善四郎 |
氷見 |
米治一 |
高坂亀次郎 |
大正14年 |
供出 |
高見ナカ |
富山 |
米治一 |
高坂亀次郎 |
昭和3年 |
供出 |
森岡覚平 |
下新川 |
米治一 |
岩坪礒次郎 |
|
供出 |
若島源次郎 |
下新川 |
米治一 |
岩坪礒次郎 |
|
供出 |
右大臣左大臣 |
有礒正八幡宮 |
米治一 |
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大正10年 |
現存 |
寺島松右衛門 |
射水市七美 |
米治一 |
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大正14年 |
供出 |
荒木甚助 |
中新川郡上市町 |
米治一 |
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大正14年 |
供出 |
山田安太郎 |
高岡女子高 |
米治一 |
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昭和元年 |
供出 |
神馬 |
高岡古城公園 |
米治一 |
岩坪礒次 |
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供出 |
浅野長太郎 |
速星町 |
加藤直泰 |
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昭和2年 |
供出 |
前田正甫 |
呉羽公園 |
加藤直泰 |
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大正13年 |
供出 |
小沢常太郎 |
福岡町 |
塚本良 |
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大正13年 |
供出 |
納富介次郎 |
高岡工芸高校 |
畑正吉 |
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昭和9年 |
供出改鋳 |
浅野総一郎 |
氷見薮田 |
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大正13年 |
供出 |
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