高岡大仏を造った、中野双山
 高岡大仏は、文政4年(1821)と明治33年(1900)との大火で2度も焼失しました。現在の高岡大仏の建立は、篤信家の松木宗左衛門によって、明治40年(1907)に発願されましたが、経済的な難局のため、なかなか完成に至らず、その後、中川原町の荻野宗四郎らの資金協力があって、発願から20年を経た昭和8年(1933)にやっと完成しました。原型師は地元の中野双山(なかのそうざん)です。高岡大仏は古式の焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色までの全工程を高岡の職人たちの手で行った高岡の銅像きっての大作です。
大仏鋳造風景
 中野双山は本名を又吉郎といい、明治14年定塚町生まれました。先に紹介した本保義太郎よりも6歳年下です。明治32年(1899)に富山県工芸学校鋳銅科を卒業して本科に進学、明治38年(1905)に東京美術学校に進学しますが、なんらかの事情があり、わずか3年ほどで帰郷しています。郷土で母校の教師をつとめる傍ら原型師の仕事に携わっていた双山が、高岡大仏の原型づくりの依頼を受けたのは、明治41年頃、彼が27歳のときでした。
 東京美術学校中退という肩書きしかもたない駆け出しの原型師に、町きっての大事業である高岡大仏の原型づくりを大抜擢で任せた当時の高岡の人々の懐の広さは誠にあっぱれです。伝統的な地元仏師である本保一族にその製作を委ねる選択肢もあったはずですが、高岡の人々はあえてそれをせず、若造の中野双山を選び新時代の大仏の具現化を託したのです。そして、大仏の原型製作をすんなり承諾した中野双山もまた大人物だったといわねばなりません。双山は、仲間思いで世話好きで括淡な性格、いつも大きな声で話す大変に豪快な人物であったと伝えられ、「奨められた盃を拒んだことはない」というほどの伝説的な大酒豪でもありました。しかも一番血気盛んな年ごろでもあり、双山は大仏原型の依頼を臆することなく引き受けてしまいました。
 翌42年頃から、双山は大仏製作の着想を得るため全国行脚の旅に出ました。奈良大仏には何度も足を運んで視察しました。その度、双山は奈良大仏の壮大さとその優れた建築技術に心打たれました。そして、数多くの仏の姿に触れた双山は、「穏やかな表情の御仏を作ろう、そのような御仏こそが高岡の風土にふさわしい」と思いました。
 大仏製作に着手した双山は日々製作に没頭しました。いつもとはまったく別人ように緊張して仕事に取り組み、構想が思うように形にならないときなどはヤケ酒に浸り、またひとりふさぎ込んだりして家族に心配をかけたこともあったようです。また、気分のよい時などは、家族を前に晩酌をやりながら、「金も名誉も欲しくない、ただ原型が見事にできさえすれば、おれの思いが達せられるのだ」と語っていたそうです。大正7年やっとの思いで高岡大仏の原型を完成させ、重任を果たした双山は一生分の仕事を全て終えたような安堵を得ました。
 今でも、高岡では大仏様の前を通るときに合掌して一礼をする人が少なくありません。皆、幼い頃からの習慣で自然に大仏に手を合わせるのです。高岡大仏に一生分のエネルギーをつぎ込んだ男、中野双山の心は、大仏様の中に今も生き続けています。
 「昭和8年5月3日、開眼式を執行した銅製高岡大仏は高さ二丈五尺 蓮台の蓮華一枚一丈で混擬土(こんくりーと)の台を合わせれば地上五丈四尺五寸で日本三大仏の一と称される。以って高岡銅器鋳物の趨勢(すうせい)を察すべきであろう」
 飛見丈繁の『高岡鋳物史話』、高岡大仏について一文です。完成と同時に高岡大仏は「日本三大仏の一」と、高岡の人々の心に深く刻まれ、鋳物の町高岡の誇りとなりました。
 非凡な才能に恵まれ海外雄飛の夢を果たしながらもパリに客死し、人々の記憶から消え去らねばならなかった本保義太郎。中央での栄進をあっさり捨てて郷土の大仏を作り、高岡大仏がある限り人々の記憶の中に生き続ける中野双山。ほぼ同世代でありながら、ふたりの彫刻家の人生の相違はなんと大きかったことでしょうか。
中野双山の略記
本保義太郎の略記
   
明治14 定塚町に生まれる
   
   
明治27 [富山県立工芸学校創立]
明治28 富山県立工芸学校鋳銅科に入学
   
   
明治32 富山県立工芸高校鋳銅科を卒業、本科に進学
明治33 [高岡大火]
   
   
明治36 東京美術学校に進学
明治37 [日露戦争勃発]
明治38 東京美術学校を中退、帰郷
明治40 高岡大仏発願

明治41 中野双山、高岡大仏の原型依頼を受ける
明治42 奈良大仏はじめ、国内諸国の仏像視察
明治43 結婚
明治44 高岡大仏頭部が完成
   
大正7 高岡大仏原型完成
   
昭和8 大仏開眼式
   
昭和15 9月5日 59歳で永眠
明治8 源平板屋町に生まれる
   
   
明治26 仏像、コロンブス博で入選
明治27 富山県立工芸学校彫刻家に入学
   
明治29 東京美術学校入学
明治31 特待生となる
明治32 渡辺長男らと彫塑会設立
明治33 彫塑会第一回展
明治34 東京美術学校彫刻課卒業
明治35 同校彫刻研究科へ進学
明治36 結婚 日本美術会の会員
明治37 渡米
明治38 海外実業練習生となるパリの国立美術学校に入学
明治40 ロダンに認められ日本人彫刻家として初のサロン展出品をはたす10月17日32歳で永眠
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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