銅像のあるまちなみづくり
 昭和30年・40年代の頃には、高岡の街中に多くの銅器問屋や鋳物工場がありました。中でも金屋町やその裏通りなどは、狭い道の両脇に何体もの銅像が並んでいて独特の雰囲気を醸していました。動物あり仏像あり、蒔を背負った二宮金次郎、小便小僧、偉業をなした老人の上半身の肖像、一糸まとわぬ裸婦像、それから私には意味不明な抽象作品など、何ら統一性もなくただ乱立している銅像群の中にいると、そこは何か不思議な迷路にでも迷い込んだような甘美な魅力に満ちていました。美術館ではけっして味わえない銅像の町高岡ならではの風情です。
 そのような中を、映画『三丁目の夕日』に登場したような三輪自動車が、荷台に銅器をいっぱい乗せて道の両脇を気にしながらのろのろと通っていくのです。その助手席に座って、銅像たちの風景を眺めていた懐かしい思い出が銅器の町に生まれ育った私にはあります。
 ところが、昭和45年ごろから郊外に問屋団地・工業団地ができ業者がぞくぞくとそちらへ移転し始めると、あの店の前にあった大きな馬も、この店の前にあった仁王様も、大黒様も女神様もと、銅像たちがめっきりと減って街中は整然としました。交通の障害はなくなりましたが、なんだかすっきりし過ぎて銅像たちが放っていた「銅器の町」独特の強烈なにおいも薄らいでしまいました。気づけばふっと寂しい気持ちになったのは私ひとりではありません。町の古老たちの中には、街中から銅像の姿が消えたことによって高岡の人々から銅器や銅像への愛着が失われていくのではないかと危惧する人もいました。そして、どこからともなく、「今一度、街中に銅像を」 そのような声が聞かれるようになりました。
 高岡市では、昭和54(1979)年の市制90周年事業として、有名作家による具象彫刻19点が高岡古城公園内に設置され「芸術の森」と名付けられました。次いで、市制100周年記念事業として平成元(1989)年には抽象彫刻を含む15点の作品が、街角や路上や公園・広場・公共施設の前などに設置されました。このとき謳われたのか「彫刻のあるまちづくり」です。その後も昭和58年には、末広町商店街振興組合により駅前通り商店街に3点の銅像が設置され、また、昭和59年には、高岡市立川原小学校の通学橋(仲よし橋)欄干に同校を卒業した児童が原型を作った作品4点が設置されました。平成5年から8年には、芸術性ばかりにこだわらずデザイン性や機能美を追求した作品や物語性を重視したアート作品などが追加され、高岡の銅像群はより内容豊かなものになりました。このようにして、高岡の街中に銅像が再び戻ってきたのです。
 これらの銅像群は、90年前に井上江花が唱えたように、商業目的で設置されたには違いありません。銅像は高岡銅器の華、街中の銅像群は銅器の町高岡にとって何よりもの広告塔です。しかしそれだけではなく、銅像に囲まれて育った高岡の住人たちにとって、銅像のある風景はどこか懐かしく、不思議にほっとするところがあるのです。そして、高岡の銅像やアート作品には、「高岡の次世代をになう人々が、未来永劫、彫刻を愛し続けてくれるように」というメッセージが込められています。

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