夜明け前
 先ずは高岡関野神社からお話しを始めましょう。
高岡関野神社の神鏡
 高ノ宮こと高岡関野神社拝殿の御神鏡三枚が、このほど平成18年7月に磨き終えられ、製作当初の輝きを取り戻しました。長い年月のうちに真っ黒に変色して汚れがたまっていたものを、「ご神体の鏡を美しく磨いて、今一度高岡の町を照らしてもらおう」と、今回の研磨と相成ったのです。
 鏡は直径約73センチ、重さは34キロ、その大きさに圧倒されます。鏡の原材料は、銅・スズ・鉛の合金です。三枚の鏡にはどれも「天保四歳 癸(みずのと)三月吉辰(たつ)」と刻まれていて、天保4(1833)年に作られたと知られます。三枚の鏡の裏面には、加賀藩前田家の剣梅鉢紋が付されており、一枚ずつにそれぞれ「正一位 加久弥(かくみ)神社」「正一位 關野神社」「正一位 稲荷大明神」と高岡関野神社三神の名があります。そしてこの神鏡奉納の発起人大長(だいちょう)と、浄財(じょうざい)寄進者たちの名前が刻まれています。
 発起人の大長(だいちょう)は本名を蓮花寺屋伝右衛門(れんげじやでんうえもん)といい、幕末の高岡の町で活躍した「侠客」でした。侠客とはやくざのことですが、大長は義理のため世のため人のために献身的な働きをしました。「岡本家文書」の中に、高岡関野神社神鏡奉納の際に、大長から高岡きっての大商人福岡屋清右衛門(せいうえもん)に宛てられた書状が残されています。書状には、まず、今の神鏡は貧弱すぎて、(文化年間に再建され立派になった高岡関野神社の)お社には似合わなくなったので神鏡の新調を発願したとあります。続いて、鏡をこしらえようと自ら京都に出向いたところ、京都の鏡屋弥助という鏡職人は実は高岡出身の金森甚右衛門(じんうえもん)であったので、この人物と示談におよび神鏡を作ることができたとあります。飛見丈繁の『高岡鋳物史話』によれば、金森甚右衛門とは 仏具屋甚右衛門ともいい高岡の中島町でさかんに仏具製作をした人物でした。つまり、関野神社の立派な神鏡三枚は、京都にも製作拠点をもつ高岡の仏具職人甚右衛門の作だったのです。その後書状は、資金調達に大変な難儀をしている様子を長々と伝え、「大口を吐いていたこの大長も年をとってはどうしようもない」と少々弱気なことも書き綴っています。そして、神鏡一枚は御役人からの寄付によってなんとか代金をまかなうことができたが、あとの二枚分は高岡の裕福商家からの援助金をあてたいと願っているとし、「大長一世(いっせ)の願いに御座候 心中にあるがままに申し上げ候まじく ご高覧の上宜しく願い奉りあげ候」と助成を懇願しています。高齢をおしてまでも資金調達に奔走する大長の健気なさに心打たれた福岡屋清右衛門ら有力町衆たちは多額の資金を寄付し、大長はみごと神鏡奉納の発願を成就させました。
 さて、ここで注目したいのが、大長が京都で示談をして神鏡を作らせた鏡屋弥助こと中島町の甚右衛門です。彼は仏具職人でしたが、文化年間(1804-1818)には寺院用の大燈篭なども手がけるようになり、金屋町の鋳物師たちとその領分を巡ってたびたびトラブルを起こしました。高岡では、京都の真継家によって世襲が認められた鋳物師のみが、寺院の大型鋳造物を手がけるという厳しい掟があったのですが、甚右衛門にはその掟を覆してしまうほどの威勢がありました。甚右衛門は大変に研究熱心な人物であったとみえ、地金の改良にも積極的に取組み『高岡史料』によれば「からかね真鍮(しんちゅう)」なる合金を使用して仏具や火鉢などの量産を果たしていたようです。「からかね真鍮(しんちゅう)」による甚右衛門の製品は好評を博し、木舟町の商人、小竹屋半兵衛の支援を得て各地に売りさばかれました。甚右衛門と半兵衛はその手腕を高岡町会所からも認められ、甚右衛門は「古銅等地金買入問屋」を、半兵衛は「銅器問屋」を申し付けられています。甚右衛門は、地金販売全般を仕切るようになり、地金販売についてのルールづくりや取締りも任されていました。
 甚右衛門が作った関野神社神鏡は「さは(わ)り」と呼ばれる、銅・スズ・鉛の合金でした。思うに、甚右衛門は、京都の仏具職人や仏師たちとの幅広い交流から、様々な金属を配合して合金を作るための豊富な知識を得、高岡の鋳金にその技術を応用した人物だったのではないでしょうか。いわば、「合金の達人」です。
後の大型銅像の製作が優れた合金技術なくしてありえなかったことを思えば、甚右衛門のような仏具職人たちによって工夫された近世からの合金技術は高岡に銅像づくりの下地となったと言えます。
 そして、高岡関野神社の宝物でさらに注目していただきたいのは、本殿におわしますふたつの大きな人物像です。
本保一族作 高岡関野神社随臣
   
 通称右大臣左大臣、正式には随臣の巨像(高さ約2m)は、高岡の仏師、本保喜作(ほんぼきさく)・兵吉・吉次郎ら本保屋一族の手による作で、明治31年10月に完成した大変に写実的な彩色木像です。ちなみに、国泰寺の金剛力士像も本保屋一族の本保義平(ぎへい)が明治後期に製作したものです。かれら本保一族は、源平板屋町と定塚町に工房を持ち幕末から明治後期にかけて、さかんに地元の彫刻物の製作を手掛けました。仏像・神像・天神像・仏具・欄間・神輿・獅子頭・調度品と彼らの生業は多岐にわたっていました。本保一族ら高岡の仏師の伝統的彫刻技術が、銅像の原型づくりに活かされたことは疑えません。
高岡関野神社本殿 明け鳥 龍 本保兵吉
国泰寺金剛力士像 本保義平作

 高岡にはさらに古い時代の彫刻として「生人形(いきにんぎょう)」の製作が見られました。この「生人形」の技術がもっとも顕著に表現されているのは、高岡御車山の「本座(ほんざ)」すなわち神の依り代とされる人形たちです。
伝辻丹甫作木舟町 高欄
七基の御車山のうち二番町以外の六基には、それぞれに個性に富んだ生人形が配されています。御車山の生人形は大変に古い起源を持ち、現存のお面の裏書や箱書きなどから推測すると、少なくとも宝暦年間(1751-1764)の頃にはすでに登場していたようです。また、明和年間(1764-1772)の頃に活躍した辻丹甫(つじたんぽ)のような、非凡な才を備えた名工の出現も生人形の発展に大きく影響しました。辻丹甫は高岡出身の工人で、京都に漆芸を学び中国風の擬堆朱(ついしゅ)や存星(ぞんせい)などの技法を高岡にもたらしました。高岡漆器の祖といわれ「彫刻塗り」を得意としたことで知られています。通町御車山の後屏(こうへい)・高欄や木舟町の御車山、また、通町の唐子人形や、木舟町の大黒天と唐子も辻丹甫作と伝えられています。辻丹甫は、卓越した漆工であり、また当時異色の生人形師でもあったのです。「生人形」製作は、後に江戸末期に活躍した高岡の仏師たちに継承されていきました。
高岡における立体彫刻のルーツをたどれば、ひとつに、彫刻塗りと生人形づくりの両方に天才的な器量を発揮した辻丹甫にたどり着くのではないでしょうか。御車山の生人形たちのあのアルカイックな微笑みの系譜は、近代に至ってもひとつの流れとして高岡の銅像へと連綿として受け継がれていくことになります。
伝辻丹甫作 通町 唐子

  以上のように高岡には、江戸時代すでに、銅像製作に必要な諸条件が整いつつありました。それは、高岡開町以来の伝統に支えられた鋳物師たちの鋳金技術だけではありませんでした。仏具師たちの合金技術、仏師・生人形師たちの立体彫刻の技術、それから、彫金、着色など、高岡のものづくりをすべまとめたところに、高岡の銅像づくりは始まったのです。   
 
本座
作者
製作年代
通町 布袋の頭部 辻九右衛門
本保喜作
文化8年(1811)
明治24年(1891)
唐子 3体 伝 辻丹甫 不明
唐子 2体 不明
御馬出町 佐野源左衛門 山本与三兵衛
(旧大仏作者)
天保13年(1842)
守山町 恵比寿 不明 文化4年(1807)
木舟町 大黒天 の面 伝 辻丹甫 宝暦12年(1762)
  唐子
小馬出町 猩々 の面 加賀国 正運  
  黒川発衛門 文化元年(1804)
一番街通 尉と姥 不明  
※参考図書 『高岡御車山』高岡市教育委員会

御馬出町 佐野源左衛門 山本与三兵衛作
通町 布袋 本保喜作作

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