(ト)大阪と堺の商人たち
大阪 左海  買次中 木市 酢善 泉與 油吉 木與
左海 吟改帯三 本改綿仁 金改忠清 極改忠清 今泉小久 若改萬甚 久上具佐 大坂 正改櫻正 霊(玉)改櫻正 松改松新 市改紺市
 「堺」を「左海(さかい)」とかいています。間違えたのか、それともわざとなのでしょうか。2箇所に「左海」は書かれています。石工は堺の新三良なる人物です。この人に聞いて見ないと分かりませんね。「大坂」は、間違えではないですよ。ご存知かと思いますが、江戸時代では「大阪」ではなく「大坂」と書いていたのです。
 合計15名にも及ぶ大阪と堺の商人たちの名前。いよいよ、この商人たちのことを調べてみたいと思います。どのような商いに従事する人たちだったのでしょう。手懸りはあるのでしょうか。
 木市 酢善 泉與 油吉 木與の5名が、他の10名とは異なる面に彫られていますね。名前の先頭には「買次中」の字があり、この5名は文字が大きくはっきりしています。なんだか他の10名よりとても偉そうに見えますよ。
 さて、関西産の綿のどのような流通機構を通って、高岡にもたらされていたのでしょうか。図解してみました。


 高岡の綿商いについては、よく分かっていない点も多いそうです。例えば、綿場の「寛文年間開設」についてもその裏づけとなる資料がないそうです。また、綿場がどこであったのかについても史料が残っておらず分からないそうです。流通についても不明な点があります。しかし、概ね次のようなことであったと考えられます。
 上方地方の和泉・河内・平野などでとれた綿はもちろん地元でも木綿に仕立てられていました。和泉木綿・河内木綿などは当時有名な木綿のトップ・ブランドです。原綿は上方で消費されるほか、江戸・東北や北陸にも移出されていました。
 綿農家でとれた綿は綿を買い付ける在郷綿問屋や仲買商人によって集められ、大坂や堺・平野などの綿問屋に納められていました。綿問屋の綿を高岡に回送する仲立ちとなるのが「買次問屋」です。「買次問屋」の仲介によって綿は、高岡の綿問屋の手に納まります。「買次問屋」は綿の品質改めもしていました。今で言う格付機関のような役割を果たしていたのです。この「買次問屋」の眼鏡に合わない綿は取引対象とはなりません。また、買取問屋である高岡の綿問屋でも品質確認をします。
 高岡の綿問屋は、綿場で開催される綿取引で能登・越中・新川などの在郷綿問屋や小売商人に綿を売ります。綿はさらに在郷綿問屋や小売商人によりそれぞれの村や町の内職的な織手のもとに届けられるのです。このルートに沿った商いは商人たちにとって絶対的なもの。このルートを守らなければ、二度とそのルートを通しての取引は出来なかったそうです。
 高岡関野神社に名のあった商人たちは、 で囲った商人たちです。
 今回、「高岡での綿の流通はどのようでしたか」といろいろな方に聞きました。市史編纂室・博物館・図書館・・・・。「あまりよく分かっていない」という答えが多いことに驚きました。この分野の研究がもっと進むことを私は期待しています。そうでなければ「北前交易の町」としての高岡の姿も明瞭にはならないのです。

Copyright 2004 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.