(ホ)伏木金毘羅神社の玉垣
 伏木金毘羅神社の玉垣には船の名前があるとの情報を得てさっそく足を運びました。するとそこには、「城安丸船中」「七良丸七左衛門」「金重丸次三良」の名が見られました。これは、高岡関野神社灯篭の「城安丸 茂八」「七良丸 七左衛門」「金重丸 治三良」と照合するもの。玉垣に刻まれた印は高岡関野神社灯篭にあった印ともぴったりと一致しています。城安丸・七良丸・金重丸は伏木湊を拠点に活躍した船として間違いないようです。こういうのを見つけるとうれしくなりますよねぇ・・・・・私だけかなぁ。
伏木金毘羅社  城安丸船中
金重丸次三良
 伏木湊は古く万葉の時代から港としての機能を果たしていました。国司として越中国に赴任した大伴家持が国庁・国分寺のあった伏木に滞在し、たくさんの歌を詠んだことは有名です。伏木には、高岡万葉歴史館があって大伴家持や万葉の歌が読まれた時代のことを紹介しています。ここには、遣唐使船の模型や「万葉人の食事」の展示もあり私などとても興味深く見学しました。また、こちらの館内にある喫茶店の甘党メニューもいけますよ。お立ち寄りの際はお試しください。
 江戸時代の伏木湊は、越中7浦の中でも最も大きな湊として栄えました。加賀藩最大の稲作地帯は小矢部川の流域でした。加賀藩の米どころといわれる城端・福光・福野・津沢・福岡などでとれた良質な米は、小矢部川を下ってその河口に位置する伏木に集められていたのです。
ですから、
 「加賀百万石言うれど、その米つくっとったがは、まっでおらっちゃ富山のモンやちゃ(加賀百万石と言うけれど、その米を作っていたのは、ほとんど全て僕たち富山県人だよ)」
 と、富山の人は言うのです。富山の人は加賀藩の縁の下の力持ちだったのです。
 さて、伏木金毘羅社は伏木埠頭の近くにあるとても小さな神社です。神社からは日本海がそして晴れ日には立山連峰が見えます。元は小矢部川左岸の旧湊町字須崎、今の総合庁舎辺りの地にあったものが、大正14年(1925)に今の場所に移転されたとのこと。潮風の吹き渡る境内を見ると、帆掛け船の名の刻まれた玉垣の他に、汽船の名前が刻まれた石灯籠もあり伏木港の歴史を静かに伝えています。
伏木金毘羅社 七良丸七左衛門
 またそのほかの資料としては、浜田の「諸国御客船帳」には、「城安丸 半兵衛様船 車屋茂八様 茂七様・・・(中略)明治元年辰5月5日越中登り入津・・」とあり、越後出雲崎尼瀬湊泊屋の「御客入船帳」には「城安丸 車屋茂八様 嘉永6年6月9日入津・・」とあるので、城安丸が伏木湊の車屋茂七・茂八が船頭をしていた船だと分かりました。また、出雲崎熊木屋の「永代御客帳」には、「金重丸23反 油屋治三良様」とありました。金重丸の帆の反数は23反。この反数からすると700石から800石積みのなかなかの大船であったようです。以上、船が3隻確認できました。
 この調査には伏木在住の古岡英明先生のご協力があったことを書き添えます。

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