(ハ)商談ばっちり福山出張
 高岡関野神社の石灯篭が奉納された慶応2年(1866)の41年前にあたる文政8年(1825)、高岡商人7名が、福山(広島県福山市)へ綿産業の視察にいきました。高岡が能登・加賀・越中における綿取引の独占権を認められたのは文政7年(1824)のことですから、その翌年の派遣ということです。
 今から180年ほども前の時代、広島福山までの旅路はどのようなものだったのか。新幹線に乗っての広島出張とは、まったく訳が違いますよね。
彼らは大阪経由で福山に至ったことが知られています。大阪までは陸路を利用し、それから海路・瀬戸内海を福山へ進んだのでしょうか。それにしても、遠い旅路です。高岡商人7名のバイタリティに敬服ですね。
繰綿
糸紡ぎ
 文政年間、急速に販路が広まり信州松本から江戸にまで移出されるようになった「新川木綿」は、生産量が急増すると関西地方の綿だけでは供給量が満たされなくなりました。そこで新たな綿産地との取引が求められるようになったのです。新興の綿.産地・福山への視察はそんな情勢の中、急を迫られて行われたものと考えられます。
 訪問地福山では、地元綿商人岩屋弥四郎と商談。取引商品の選定、商品規格の指定、梱包ロット数の指定、相場の決め方、取引方法、決済方法などを綿密に打ち合わせました。岩屋弥四郎のほうでも「高岡の希望に副うよう精一杯努めさせてもらいます」と高岡側に請書を渡したのです。遠方足を運んだ甲斐あってめでたく商談成立です。それにしても商談内容の要点は今日となんら変わりません。いや、電話・ファックス・Eメールと様々な連絡手段のある我々現代人のほうが、よほど詰めの甘い商談をしているのかもしれませんよ。昔の商人が一度の商談にかけたこの気合。見習いたいものですね。ただ、納期についての取り決めはされなかったようで、納期にうるさかったという江戸綿問屋との違いを感じました。高岡は今でも時間厳守はどうも苦手のようです・・・・。
 さてこの同年、高岡には従来の綿場とは別に、もうひとつの新設綿場が誕生しました。綿場とは、綿の取引所のことです。綿場の運営は加賀藩の公営事業でした。綿場の口銭(こうせん)のうち半分を藩に上納することになっていたそうです。ふたつの綿場はそれぞれ「締綿場」「玉綿場」と呼ばれ区別されていました。「締綿場」では従来通り関西方面から移入される綿が、「玉綿場」では福山などの中国地方産の綿が取引されたそうです。高岡では、関西地方産綿=締綿、中国地方産綿=玉綿と区別し、取引所も分けていたのです。このような徹底した原材料の産地管理システムを、高岡綿商人たちが導入していたことに私は驚きました。
 高岡商人7名の福山派遣はこの両綿場体制の下準備として行われたのです。その後「締綿場」と新設の「玉綿場」のふたつの綿場の設置が、綿の安定供給に大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。また、2つの綿場を互いに競合させ価格安定と品質改良とを図ろうという高岡商人たちの巧みなおもわくもあったのです。


 その7名の中には、前出の高岡関野神社灯篭に名のあった福岡屋清右衛門(3代目)・高辻屋与右衛門・横田屋吉左衛門が含まれています。福岡屋清右衛門は、文政5年(1822)に加賀藩の綿場買取役に抜擢され、高岡綿場の改良整備にあたるよう使命を受けていました。その3年後に実施された福山視察は、福岡屋の絶大なリーダーシップがあって実現したのでしょう。視察は福山だけでなく、米子や下津井(倉敷市)へも行われたそうです。
 「綿取引の独占権獲得」「販路の拡大」「新たな綿産地との新規契約」と、そして地元における「両綿場体制の整備」。いくつもの命題を同時進行で達成していった彼ら綿商人たちには、すばらしい商才が感じられますね。新たな綿産地との取引は、高岡商人にとって新たなニシン販路の獲得でもあったでしょう。遠地へも我が身をいとわず奔走し新たなビジネスチャンスを獲得する商人たちのたくましい行動力が高岡の町を支えていたのだと感じさせる一件です。そして、緻密な計画性とバイタリティあふれる実践力を持ち合わせていた先人の姿に深く感心させられます。
派遣された商人
代理人
福岡屋清右衛門  
高辻屋与右衛門  
横田屋吉左衛門  
石塚屋弥助  
井林屋伊右衛門  
井波屋左七郎 代人 伏木村新三郎
手崎屋彦右衛門 代人 氷見町久次郎
 前田利長公によって開かれた高岡は、開町以来、藩祖利家公の代から前田家に仕えてきたという古参の商人の子孫たち=由緒町人たちのリーダーシップにより町政が取り仕切られてきましたが、江戸時代後期ここに見られるような新興商人の活躍がめざましくなってきます。新興商人の代表的存在である三代目福岡屋清右衛門は文政12(1829)年に、町算用聞並に抜擢させ、また町役人のひとりに名を連ねました。町政を動かす実権を握るまでになったのです。
機 織
 高岡のある旧家にはとても珍しい古文書が残されています。「慶応二年丙寅高陵評判実録」というもので、名前は立派ですが正式な文書ではなく、高岡の物好きな連中が世間話の延長で「高岡の商人ランキング」を書き留めたものなのです。そのランキングのベスト・スリーは、「福清、綿儀、綿平」。灯篭に名のあった綿商人たちです。奇しくも高岡関野神社の石灯篭は、「高陵評判実録」が書かれたのと同じ慶応2年(1866)に奉納されたもの。人の世間話など根も葉もないものかもしれませんが、商人たちはもちろん、長舟から荷物を運ぶ荷方たち、お茶屋の給仕係りや芸者衆、商家に出入りする御用聞きの丁稚さんまで・・・町の大衆は、敏感に町の情勢を感
じとっていたことと思います。

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