(ロ)高岡の綿商人と北前船
 
高岡商人
綿問屋中
 
 
福清
福岡屋清右衛門 横田町
 
横吉
横田屋吉左衛門 不詳
 
綿儀
綿屋儀兵衛 守山町
 
高與
高辻屋與右衛門 中島町
 
糸仁
糸屋仁三郎 小馬出町
 
綿平
綿屋平兵衛 守山町
 
高八
高辻屋八右衛門 小馬出町
神初利三郎商店(,高辻屋)の半纏 (現・金屋町)
 山の下に升のデザインは、石灯篭にある高辻屋の印と同じ。半纏のほか様々な道具にこの印が付されている。高辻屋の末裔の神初さん(銅器鋳造業)は今でもこの時代と同じ印を使用。
 短縮呼称で書かれていた商人たちのフルネームと居住地を「高岡の町々と屋号」より調べました。高岡では、市民レベルでの屋号研究が充実していますので、フルネームと居住地は比較的簡単に調べることが出来ました。
 そして、高岡は近世からの古い屋号が今も現役力を持っているタイムカプセルのような町でして、商人たちの印も近世からのまま使用されている場合が多いです。写真にあげた高辻屋こと神初さんもそうですが、横田町の福岡屋こと岡本さんでもこの灯篭に刻まれている印と同じ「鉦(かね)にセ」を今もなお使っておられます。この「鉦(かね)にセ」の印を見ると地元の人は直ぐに岡本清右衛門さんを連想しますね。そうそう、岡本さんでは「清右衛門」の名を今日も襲名し岡本清右衛門を名乗っておられるのですよ。横田町にて、肥料販売業やゴルフ場の芝の販売業を営んでおられ現在の御当主は10代目。家業のほかにも多くの名誉職をこなしておられる地元名士です。そして、その温厚なお人柄は人望が厚く、広く地域住人の信頼を集めておられるのです。
 さて、土蔵づくりの町並みで知られる木舟町・小馬出町・守山町の近辺は綿商人たちの町として繁栄しました。もっとも、この町並みが現在のような土蔵造りとなったのは明治30年代の大火の後、防火対策として土蔵造りが奨励されたことに拠ります。元々はどのような町並みであったのでしょうね。想像してみたこと、ありますか。タイムマシーンでもあれば見に行ってみたいものです。
東建ち(左)と土蔵づくり(右)。
高岡の町並みには佐渡養順邸のような「東建ち」も残っている。明治の大火以前では、このような家が多かったのだろうか。
 ここで登場する綿商人たちの7名のうち4名はその区域の居住者です。私たちが山町筋と呼んでいるこの区域に店を構えることは、高岡商人たちのステイタスでもあったのです。綿屋、布屋、染物問屋・呉服屋・米屋、塩屋、薬種屋、金物屋、金融業者らが店を並べる商都高岡の中心でした。山町筋に並ぶ店の特色は問屋業だということです。小売店もありましたが、間口の大きい問屋が庇(ひさし)を競い合う街でした。その中でも綿・綿糸・木綿を扱う問屋は大店でありその数も多かったのです。守山町の居住者綿屋儀兵衛と綿屋平兵衛は、綿商いに従事していた家にふさわしくその屋号は「綿屋」ですね。
 話はまたそれますが、近世の高岡町人には「わ」の音と「ば」の音を転換していう習慣があったそうですね。例えば「綿屋の番頭」を「ばたやのわんとう」といっていたそうなのです。確かに明治中期に生まれた私の祖父でも「バス」のことを「のっりゃいわす(乗合いバス)」、駅のことを「ていしゃわ(停車場)」、「娑婆」を「シャワ」と言い、「たわし」を「たばし」、「忘れた」を「ばすれた」、「うちわ」を「うちば」、人に挨拶は「こんにちば」「こんうわんば」と言っていました。綿儀さん綿平さんも或いは「ばたぎはん」「ばたへはん」と呼ばれていたかも知れませんね。えっ、今でも近世高岡町人の生き残りがおられますか・・・。恐れ入りました。
 話を戻しましょう。山町筋の商人たちのほかに、横田町・中島町の商人の名があるのが注目されます。筆頭の福清こと福岡屋清右衛門は 高岡一の大商人といわれた人物でした。幕末期、高岡綿商人の大ボスは、横田町に居住していたのです。そして高辻屋與右衛門家は横田町から千保川に架かる橋を渡った中島町に。中島町は千保川の中洲が発展して出来た町です。
 小馬出町の高辻屋八右衛門は中島町高辻屋與右衛門家の養子であったそうですから、いわゆる「暖簾わけ」をして小馬出町に出店したのでしょう。かれもまた中島町出自の商人と見てよいと思います。また居住地の判明しない横田屋吉左衛門もその屋号横田屋から横田町ゆかりの商人と察せられます。
現在、川筋が変わり川巴良諏訪神社横を流れる川は消滅。二股に分かれていた川は1本の川筋となっている。有磯正八幡宮と川巴良諏訪神社とにはさまれた区域に商人が多く居住した。酒造屋や味噌醤油屋もこの近隣には多かった。

昭和初期の千保川・横田町中島町付近
横田町・中島町は千保川に面する船便の拠点の町でした。また、北陸道の高岡町西入り口でもあり水上流通と陸上流通とがクロスする要所だったのです。福岡屋・高辻屋らはこうした地の利を活かして商いをしていたのです。廻船商いの栄えた時代、この近辺では多くの商人が店を構え、米・綿・にしん・昆布などの交易がさかんに行われました。福岡屋・高辻屋では、ともに渡海船数隻を保有していたことが知られています。彼らは伏木湊に持船を停泊させ、高岡へと長船を使って物資をピストン輸送していました。
 昭和初期にいたっても千保川は大小の長船や「ぽんぽん蒸汽」と呼ばれる小型汽船の行き来で賑わっていたそうです。夏の季節ともなれば、船の行き交う傍らで腕白少年たちが魚取りをしたり、すもぐり競争に興じたりと、元気に水しぶきを上げていたのです。海水浴には「ぽんぽん蒸汽」を所有しているオッサンに頼んで乗っけてもらい、千保川から小矢部川をつたい国分浜まで川を下って行ったそうです。今では、考えられないことですね。これは昭和4年生まれの父に聞いた話。千保川と小矢部川とが合流する地点にくると川の流れがにわかに速くなるので船上の子どもたちは大はしゃぎだったそうです。
日本海を走行する北前船(みくに飛翔館より)
 渡海船を所有する高岡商人たちは、地元の米や北の産物ニシン・昆布を上方へ運び綿糸・綿布の原料である綿を上方で仕入れて高岡へと持ち帰りました。地元の町屋や農家では今日でいう内職のような形式で綿布の生産が盛んに行われていました。先にものべましたが、地元産の綿織物のひとつ「新川木綿」は広く人気を博し、加賀藩の重要な特産品でもあったのです。
 さらに福岡屋・高辻屋らの綿商人たちは、地元農家が生産した米や木綿そしてニシン釜や酒や味噌・醤油などの物資を北海道へと運び、北海道からは昆布・ニシンを地元へ持ち帰るともに大阪へ廻送すると言った廻船商に従事して多いに繁栄しました。ニシンの締めカスは「金肥」と呼ばれて越中地方では稲作の、また大阪地方では綿耕作の肥料として大きな需要がありました。このニシン肥料の効用はすばらしく、これを使用することで収穫量は倍増したそうです。
 また、当時の高岡は全国的に知られた「ニシン釜」の一大産地であり、北海道へ大量移出していました。ニシン豊漁の時代には、寝る暇もないほどに、ニシン釜を鋳造したそうです。「ニシン釜」を製造していた鋳物師の町、金屋も横田町・中島町とは目と鼻の先ですね。
金吹きは夜明け前の仕事

 ところでニシンの締めカスとはニシンを釜で煮た後に、圧搾機でぎゅっと絞りニシン油を分留した絞りかすのこと。箱形に入れて絞めブロックのようにしたものを崩して天火で干してカラカラに乾燥させてムシロ袋に詰めます。その間「発酵」という過程を経るので筆舌に尽くしがたいほど臭い臭いものだったようです。以前、東岩瀬にある「北前船資料館 森家」にお邪魔したとき、杉本指導員さんに伺った話では「ニシンの締めカスを積んだ船はものすごく臭く、船が港に入るときには水平線に船の姿が見えるより前から臭かった」そうです。
 そんなすごい匂いのものってこの世にあるのだろうかと思いましたね。水平線の向こうから臭いなんて。町には町の匂いがあるとよく言いますが、ニシンの締めカスを商う横田町界隈は、尋常な匂いの町ではなかったと思いますねぇ。
 高岡では今でもニシンが食卓によく登場します。(臭い話のすぐ後でごめんなさい)にしんの昆布巻き・にしんとジャガイモの煮物・にしんの麹漬け。これらニシンの食文化は北海道交易に由来するものです。
 ともかく、大阪―高岡―北海道間を往復し、行って商い帰ってまた商う彼ら高岡商人たちは、典型的な北前商人と言えましょう。少し時代を下った嘉永4年(1851)、福岡屋清衛門家では福井県永平寺より免許されて、越前の波多野家秘伝の秘薬「一粒金」の権利を譲受け、薬種業にも進出(五代目福岡屋清衛門)。水橋売薬を通して広い販路を築いていました。他にも福岡屋では砂糖・お茶・油などの販売をも手掛け、まさに総合商社的な商法を展開していたのです。
 福岡屋清衛門家の初代は近隣の農村出身で高岡の寺院の寺男を経て商人となりました。2代目に至って御上にたびたび献上金をするほどの有力商人となり、三代目ではさらに隆盛し高岡綿商人のトップとして揺るぎない地位を築いたのです。

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