(ル)まとめ
寛文12年(1672) 高岡に綿場ができる。
明和元年(1764) 高岡綿場、公営となる。
文政5年(1822) 福岡屋清右衛門、加賀藩の綿場買取役に抜擢される。
文政7年(1824) 高岡が加賀藩から綿取引の独占権を与えられる。
文政8年(1825) 高岡綿商人福岡屋清右衛門ら7名が、福山(広島県福山市)へ綿産業の視察。玉綿場・締綿場の両綿場体制となる。
文政12年(1829) 福岡屋清右衛門、町算用聞並・町役人となる。
嘉永4年(1851) 六渡寺日枝神社、玉垣奉納
安政3年(1856) 福岡屋清右衛門ら大阪商人とともに大坂住吉神社に灯篭奉納
慶応2年(1866) 福岡屋清右衛門ら大阪商人とともに高岡関野神社の石灯篭奉納
 北前交易がさかんとなり日本各地で廻船商人たちが大活躍し始めた文化文政期、高岡でも福岡屋清右衛門等のような新興商人が誕生しその商才を多いに振るいました。本文ではあまりふれませんでしたが、文政期は高岡の町にとって試練の時でもありました。この頃、近隣農村部の町々では在郷の布商人たちが勢力を持ち始め、農家で産する八講布などを買い集め自ら販売するようになりました。文政元年には、それまで高岡商人の掌中にあった布の検印業務が近隣の町々の商人にも認められるようになりました。布の集散地としての高岡の座が脅かされるようになっていたのです。
また、文政6年には、米の取引で栄えた高岡から「御米市場」(米取引所)が姿を消しました。米の取引は高岡の財源でしたから、高岡の町人にとってこれほどの痛手はありません。
そして、その間文政4年には高岡の町屋のほとんどを焼き尽くす大火にあっているのです。そうした時代背景を考えると高岡商人にとっての綿販売独占権の獲得は、高岡再生を賭けての執念の施策であったと思われます。商人たちにとって綿場の整備と綿取引の拡大は、まさに逆境から町を救うための挑戦だったのです。それを思うとき、三代目福岡屋清右衛門らの熱い商人魂が時代の壁を乗り越えて私たちの胸に迫ってきます。
綿場での取引は高岡を活性化させ、商人たちは成長して財力を得ました。町は甦ったのです。そしてゆとりを持つようになった商人たちは神社仏閣の造営にも資金を援助し、灯篭や玉垣の奉納を行ったのです。
 かれら商人たちにとっての灯篭や玉垣の奉納は、信仰心の表現であるにとどまりません。高岡と大坂や堺の商人たちは、灯篭や玉垣の奉納の有志となって寄付を出し合うことで、互いの信頼関係を確認し合いました。また、商取引のある地に自らの名を刻み後世に残すことは、商人の商圏やテリトリィを確認しようとする意思の現れであり、商売の繁盛ぶりを示すことであり、また商人としての一種のステイタスであったのでしょう。彼らは自らの名の刻まれた立派な灯篭をたてることで「信用」を勝ち取っていたのです。
 先にも触れましたが、高岡と大阪・堺との取引は綿だけのものではありません。関西地方には、河内・平野・和泉と広く綿作耕地が広がっていましたが、綿耕作に欠かせない肥料には北前船が運ぶニシンが広く使用されていたのです。綿とニシンとを売買しあう、それこそ鍵と鍵穴のキー構造のような関係によって高岡と大阪堺の地は強く結ばれていたのです。
 大坂堺の地と、高岡との交易はいつから始まったのでしょうか。
 綿の衣服の着用が一般したのは、江戸時代になってからのことだそうです。江戸時代初期において綿は、中国や朝鮮半島からの輸入品であり一部の限られた人のみが手にしていたのです。その後、江戸幕府が庶民の衣類として木綿の常用を奨励すると木綿は急速に全国に普及しました。
 綿はすばらしい繊維です。通気性と保温性を兼ね備え、吸湿性にも優れています。また、肌触りもよく、染色を施したときによい表情を見せてくれます。丈夫で耐久度も高く、私たちの衣類としてなくてはならないものですね。すっかり日本人の生活に溶け込んでいる綿衣類の普及がこのように結構新しい時代のことであるとは意外でした。
 綿衣類や綿布団の普及によって冬場風邪をひく人が減り、日本人の寿命が延びたという説もあるそうです。また、女性のボディラインの曲線を男性が意識し始めたのは、木綿の衣類の着用が一般化してからのことだそうですね。木綿以前の時代では、ボディラインの曲線をはっきり強調するような繊維が日本にはなく、女性のシルエットは皆総じてずん胴だったとのこと。木綿着物の出現は、日本人の女性に対する美意識にも大きな影響を持っていたというわけです。
高岡に綿場が開設されたのは、寛文11年(1671)頃のことだそうです。比較的早い時代からの開設であったことに驚きます。また、高岡の綿場設置は大阪堺において万治年間(1658-61)に綿買次問屋がその営業を開始したことに対応しての措置であったとのこと。高岡の綿場はその開設当初から、大阪綿取次問屋と強い連動で結ばれていたのです。
さらに、高岡が綿の集散地として歩み始める以前から、大阪や堺の商人と高岡とは取引があったに違いありません。戦国の世、日本最大の国際交易都市であり、武器の最新製造技術を保持する堺は戦国武将たちにとっては、欠くことのできない交易相手でした。利家利長親子や高山右近らも堺とは少なからぬ縁故をもっていたでしょう。先に見られた堺商人の「具足屋」の屋号などは、彼らのルーツが武器製造にあることを彷彿とさせるものです。或いは、このような時代から高岡と大阪や堺との交易のパイプ役として近江商人が介在していたのかもしれません。
 また、「河内丹南」の出自だという高岡鋳物師たちの存在を思ってみても河内丹南から遠からぬ大坂や堺と高岡との交易には、古い歴史があるようです。鋳物師の南蛮吹きの技術は大阪堺が本場でした。
 このように大阪や堺と高岡との商取引は、河村瑞賢による西回り航路開拓前夜からの交易を始まりとし、連綿として引き継がれ、福岡屋清右衛門ら石灯篭奉納者に代表される新興の綿商人たちの活躍によっていよいよ本格化しました。そして、幕末から明治に繰り広げられた北前交易の時代にその円熟期を向かえたのです。
 最後に付け加えるならば、堺は醸造業の先進地でもありました。私たち高岡の醸造業者にも堺から醸造技術の情報が随時もたらされていたことだと思います。そして、高岡の食文化が関西風だと言われるゆえんは、ここで述べたような上方との頻繁なる交流にあるのだと確信させられるのです。

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