(ヌ)奉納者たちの名前
 住吉灯篭には、後世に基壇を追加してどんどん高くしていく習慣が見られるそうです。最も高い玩具商の灯篭などは、明治・大正・昭和と次から次と追加され、平成の世になっても基壇の追加が行われたそうでその高さはなんと18メートル。灯篭というより、トーテンポールのようです。
 「越中締綿廻船中」が奉納した灯篭の場合も移築に伴い基壇の追加がありました。
灯篭の基壇は上段下段に分かれますが、上段には安政3年奉納者の名が、下段には34年を経て明治23年(1890)に現地へと移築再建したときの浄財献納者の名が刻まれています。
 ここでは上段の安政3年(1856)奉納者のみの名を見てみます。
南基上段 木屋市郎兵衛
講元 和泉屋与兵衛
締綿問屋世話人 綿屋仁左衛門
  帯屋三郎兵衛
  忠岡屋清兵衛
  忠岡屋清右衛門
  小山弓兵衛
  具足屋佐七
  萬屋甚三郎
  桜井庄三郎
  桜井屋正十郎
  松坂屋新三郎
  紺屋市郎衛門
北基上段  
講元 木屋市郎兵衛
  和泉屋与兵衛
世話人 酢屋善次郎
  油屋吉蔵
  小島屋徳兵衛
高岡場附綿問屋 福岡屋清右衛門
  横田屋吉左衛門
  綿屋儀兵衛
  高辻屋與右衛門
  糸屋仁三郎
世話人 金屋次助
  小泉屋清吉
総船頭衆中 木屋与兵衛
  綿屋平兵衛
  高辻屋八右衛門

どうです、皆さん。そこには高岡の綿商人だけでなく大阪の締綿問屋の名が含まれていました。高岡の綿商人の名があることだけを期待していた私には、降って湧いたような収穫。しかも、みごとに高岡関野神社灯篭の奉納有志と一致しているではありませんか。
「すごい。私は、高岡の先人たちに導かれてここに立っているのに違いない。」
なんだかとても感慨深いものがありました。
これぞまさしく、商人たちによる地域間交流の証し!
ここでも高岡商人の筆頭は、横田町の商人福岡屋清右衛門です。
高岡関野神社灯篭の商人たちの短縮呼称と照合させてみます。

高岡関野社 大坂住吉神社越中締綿廻船中
木市 木屋市郎兵衛
酢善 酢屋善次郎
泉與 和泉屋与兵衛 
油吉 油屋吉蔵
木與 木屋与兵衛
帯三 帯屋三郎兵衛
綿仁 綿屋仁左衛門
忠清 忠岡屋清右衛
忠清  忠岡屋清兵衛門
小久 小山弓兵衛
具佐 具足屋佐七
萬甚 萬屋甚三郎
櫻正 桜井庄三郎
櫻正 桜井屋正十郎
松新 松坂屋新三郎
紺市 紺屋市郎衛門
福清 福岡屋清右衛門
横吉 横田屋吉左衛門
綿儀 綿屋儀兵衛
高與 高辻屋與右衛門
糸仁 糸屋仁三郎
綿平 綿屋平兵衛
高八 高辻屋八右衛門

 以上のように、高岡関野神社灯篭と大坂住吉神社の越中締綿廻船中奉納の灯篭とでは、奉納者が一致するのみならず、記名順位までもがまったく同じであることがわかります。記名順位は商人たちの個々の力量と序列を表すものとして重要です。
 また、住吉社灯篭の「世話人 金屋次助」は、高岡関野社灯篭の「発起世話人金屋冶助」と同一人物であると思われます。
 大阪堺の綿商人と高岡綿商人は、同じ有志によってお互いの地に灯篭を奉納しあっていました。まず安政3年(1856) に大坂住吉神社に灯篭が奉納され、10年の年を経て慶応2年(1866)、今度は高岡関野神社に灯篭が奉納されたのです。これは、少なくともこの時代の10年間、同じ流通機構が安定して維持継続されていたことを示すものではないでしょうか。
 さらに申せば、かつての大阪堺と高岡間の物資輸送は今日のように安全なものではありません。板子一枚下は地獄といわれた北前の帆掛け舟輸送に頼っていたのです。大阪堺と高岡の商人たちは海難事故という大きなリスクを乗り越え結びついていたのです。そこには、単に物資の売買という枠にとどまらない強く固い絆があったと私は考えます。灯篭を互いに奉納するという行為はその絆を具現化しようとしたものに他ならないのです。
 
 大阪と堺の商人さんたちにいては残念ながら今回これといった情報を得ることが出来ませんでした。大阪市・堺市は戦時中、空襲の被害にもあっており古い資料があまり残っていないそうです。また、タイムカプセル高岡と異なり人や物の流動が激しく、幾多の創造と破壊とを繰り返してきた大阪や堺では、商人たちの転業や転地も多かったようで手懸りはつかみ難いと思われました。

Copyright 2004 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.