カルカン
 白く四角いものは、カルカンです。それに先ほどの柿の漬物が添えてあります。カルカンは軽羹と書き、鹿児島の郷土菓子として有名です。この皿は、西洋料理でいうところのデザートです。
「聞書き鹿児島の食事」より作り方を紹介しましょう。「やまいもの皮をむき、すりおろしたものをよくすり鉢でする。途中で少々水をさしながら、ふっくらふくらんで量が多くなるまでする。さらに水と砂糖、米の粉をいれながら、よくすり混ぜる。木で作った四角いせいろに、ふきんを濡らして絞ったものを敷き、たねを流し込んで蒸す。はしをさしてみて、はしに粉などがつかなくなるまで蒸しあげる。(しゃく米の粉100匁・やまいも100匁・白砂糖150~170匁・水約100匁)」カルカンは、色は白くもちもちとしたカステラという感じです。また、かすかな油分があります。とても甘く独特のコクのある味がおいしかったです。
 カルカンの歴史を少し調べてみました。鹿児島市内には、明石屋さんというカルカンづくりの老舗があります。明石出身の菓子職人八島六兵衛が、薩摩藩主に見込まれて連れてこられ、安政元年(1854 )に鹿児島で菓子屋を創業したのが明石屋さんのルーツです。明石屋さんのホームページには次のようにあります。「かるかんがこの世に生まれたのは、遡ること三百年前。時は元禄、島津家二十代綱貴の五十歳の祝いの席に用いられたのが最も古い記録になります。場所は薩摩、今でも薩摩(鹿児島)で最も多く「かるかん」が作られているよ うに、生まれ出でたのもここ鹿児島でありました。島津家は七十七万石をもつ、有数の大藩。この祝いの席に用いられたかるかんは他の菓子らとともに扇形の桶三つに入れて盛られていたといいます。菓子は全部で羊羹、ういろう餅、焼き饅頭ら二十九もの種類がありました。羊羹が十箱、ういろう餅が四箱などという内訳の中、「かるかん」は十五棹献上されました。このことは「かるかん」が他の菓子らと同じように肩を並べて、祝いの席に無くてはならない存在としてあったことが窺えます。」
 これによると、カルカンが生まれたのは今から300年前だと書かれています。しかし、その頃すでに薩摩藩の祝い事には欠くことのできない重要な意味を持つ菓子であったということで、それ以前にカルカンが鹿児島薩摩藩になかったということにはなりません。カルカンは300年前にはすでに存在し、藩主にも重んじられる特別な菓子であったとの解釈が妥当ではないでしょうか。カルカンが、薩摩藩由来の菓子であるということには興味をひかれますね。
 鹿児島県の明石屋さんに、七尾市本行寺のキリシタン料理のカルカンをお伝えしたところ大変に興味を持って下さいました。明石屋さんからお返事をいただきました。
「軽羹の由来については、いろいろな説がありますが、私どもの認識では、「軽羹」という文字は約300年前に文献にはじめて出てきます。ですから、本行寺に伝わったのもそれ以降だと思います。また、現在のような、「自然薯」、「米粉」、「砂糖」を使った軽羹を創作したのが当社初代:八島六兵衛翁と認識しております。 」
と、カルカンが七尾に伝播したのは、南蛮人が活躍し高山右近ら加賀キリシタンが生きた時代よりもずっと後世のことではないかとのご意見。
謎は深まりますね。現在のカルカン作りの手法は安政元年に明石屋を創業した八島六兵衛さんによるものとして、それ以前「幻のカルカン」とでもいうべきカルカンが存在していたのかもしれませんね。カルカンの誕生に南蛮人やキリシタンは関っていたのでしょうか。また、薩摩藩由来の菓子カルカンがどのような経路で、加賀藩の七尾本行寺へと伝播したのでしょうか。
 とにかく、能登の隠れキリシタン料理の中に鹿児島の銘菓「カルカン」が含まれているということは、大変に興味深いことです。カルカンの起源はもしかすると、フランシスコ・ザビエルらが持ち込んだ南蛮菓子でしょうか?

明石屋さんホームページ  http://www.akashiya.co.jp/


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