隠れキリシタン寺、本行寺探訪
 七尾駅からはタクシーに乗りました。小丸山城公園の前を通過し海岸方向へと向かいます。七尾の町では、近世からの町割りで多くの寺院が海岸近くの小高い山に集められています。「山の寺」といわれる一帯。かつては、この寺院群が外敵に対する防塞となって七尾の町を守っていました。この寺院群の中、山の中腹に本日の訪問先である隠れキリシタンの寺、本行寺はあります。こちらで毎年5月に行われる「アニマー(霊魂)祭」という隠れキリシタンの祭りの振る舞い料理として出される「南蛮正月膳」。それが、目当ての「隠れキリシタン料理」です。「南蛮正月膳」は本行寺の代々の住職が継承してきた料理です。途中その伝承が途絶えていた時代もありましたが、現在の御住職小崎学圓さんが、「耳書き帳」という寺に伝わる古文書と、口伝を元に再現されたのであります。
七尾市山の寺にある静かな山寺日蓮宗楊柳山本行寺

 本行寺に到着した私は、先ず御住職の小崎学圓さんにご挨拶。御住職によれば、この本行寺は、かつて加賀キリシタンの本拠地であり、前田利家・利長親子や高山右近を初めとする家臣団の「キリシタン修道所であり事務所=ビューロ」であったそうです。宣教師たちが滞在しキリスト教の教えを伝授するだけでなく、土木・建築・造船・武器製造・火薬・天文・金属・医学薬学・絵画・音楽・・・あらゆる南蛮の学問がこの修道所では伝授されていました。ここは、国際性豊かといわれる加賀文化の発信基地であったというわけです。
 その後も御住職からは、実にたくさんの説明を受けました。七尾城主であった畠山氏のこと、本行寺の開祖円山梅雪のこと、茶室きく亭のこと、寺に伝わる高山右近直筆の軸のこと、本行寺に残るキリシタン遺物のこと、この寺で去年新発見されたマリア像のこと、前田利家・利長親子や高山右近とこの寺とのつながり、十字架が隠し彫りされているゼウスの搭のこと、ゼウスの塔に葬られている海津夫人のこと、この寺に伝わるキリシタンの宗教行事アニマー祭のこと、寺に残る右近谷という場所のこと、近年まで残っていたこの土地の民間療法と南蛮医学とのつながり・・・はたまた、環日本海交易や北前船交易にも論が及んであっという間に1時間あまりが過ぎてしまいました。その間、御住職は一度たりとも滞ることなく弁舌を振るわれたのです。御住職のあまりの気迫に、私は腹がへっていたことを忘れてしまったぐらい・・・。その御講義の中からいくつかを紹介しましょう。
墓地には「ゼウスの塔」と呼ばれる大きなお墓があります。
 正面には十字架が隠し彫りされています。塔の中央には聖体が納められているとのこと。アニマー祭では、塔の後ろ側にある穴から棒を差し入れ聖体に触れて神と人とが交信をしたのだと言います。この塔は本行寺のキリシタン信仰のシンボル的な存在でした。このお墓に眠るのは「海津夫人」という人物。加賀藩の重臣津田玄蕃の母であり京都の寺で受洗したキリシタンでした。慶長19年(1614)に高山右近らがマニラに追放になった後、他20名のキリシタン女性とともに密かに送られ一代幽閉の身となり余生をこの寺で過ごしたのです。キリスト教からの改宗を拒む者に対しては、他藩の例に見られるような厳しい弾圧を加えず、このような穏便策をとるのが加賀藩のやり方だったようです。高山右近のマニラ追放後も、本行寺は「キリシタン幽閉の寺」としてキリシタン信仰者と関りを持ち続けたというわけです。
 津田家は、初代・正勝が二代藩主の前田利長に仕え、以降、二代から九代まで玄蕃を名乗りました。津田家は、禄高1万石以上という他藩なら大名クラスの高禄を得ていた名門家のひとつ。また、後には蘭方医学に精通する藩医を輩出した家でもありました。海津夫人に代表されるように加賀藩のキリシタン宗徒の多くは、重臣と言われる家臣やその家族の中にいたと言われているのです。
 左写真は、去年本行寺で見つかった人物像です。江戸時代初期のものと推定されています。御住職によれば「マリア像」。禁教時代を含めた長い年月を超えてよくぞ残っていたものと感心することしきりです。
 腕は朽ち落ちています。どのような形をしていたものか―――。今となっては想像に頼るしかありません。両腕を大きく開いて博愛を示していたのでしょうか。それとも胸で合掌し神に祈りを捧げていたのでしょうか。或いは、幼子イエスを抱きしめていたのでしょうか。頭にはベールかぶっています。太い縁取りのデザインが施されたベールは、身体全体を覆うほどの大きく長いサイズ。さらに頭部にはクロスの連続紋様の冠をつけています。また、スカートにはドレープが表現されていますね。そして身体の中心部には、何やら摩訶不思議な謎の紋様が。梵字なのか、ヘブライ語なのか何なのか。像が台の上に乗って立っているのも特徴的です。裾からマリア様の両足が覗いているというのはヨーロッパのマリア像にはなく、仏像の様式を踏襲する特長かと思われます。また、全身に占める顔の割合が西洋のマリア像に比べると大きく、典型的な日本人体型であることもおもしろいところです。
 そして、作風に禁教の抑圧などは全く感じられないのが最も大きな特色でしょう。国内現存のキリシタン遺物にはマリア像がありますが、どれも聖母マリアであることを隠して仏像に似せたもの。禁教時代のマリア観音と呼ばれるものです。しかし、この像はそのような類のものではありません。
 マリアやイエスを表したキリスト教の聖像は礼拝には欠かせないものでした。当然ながら信徒からの需要が高く、外来品だけに頼っていては不足するので、九州や大阪のイエズス会では、国内の信徒にこれを制作させていました。その後の禁教によって、国産聖像のほとんどは消滅しましたが、「ザビエル聖人像」「マリア十五玄義図」などがわずかに今日に残されています。このふたつの聖像は奇しくも高山右近が領主をしていた大阪高槻地方で発見されたもの。
 高山右近に眷属して加賀藩にたどり着いたイエズス会の聖像制作職人はいたのでしょうか。もしいたとすれば、本行寺のマリア像はその人の手によるものか。しかし、このマリア像は、イエズス会の作風とはいささか異なるように思えます。また、イエズス会の銘もなく、十字架さえもこの像には見られません。
「マリア十五玄義図」椿を持つ聖母像
1930年(昭和5年)、茨木市音羽の原田家屋根で見つかった絵画。
イエズス会が日本でつくらせたものとされている。
 この像を写真に収めたのは、本行寺においてではなく、高岡市博物館で開催されていた「高岡城展」(平成16年7月22日から8月29日)においてでした。右近さんが設計をしたといわれる高岡城。その跡に立つ古城公園内の博物館に本行寺「マリア像」が、やってきたのです。
 私は、加賀のキリシタン信徒の一人が、心の中にあるマリア様をひたすら形にしようと熱望して彫りあげたものではあるまいかと想像しますがどうでしょう。この像をめぐっての今後の議論が楽しみです。

 次の仏像は漆塗りの厨子の中に大切に保管されていました。胸のところに仕掛けがあり合掌された手を開くと胸の奥に十字架が隠してあります。全国的な規模の禁教が進行する中、本行寺の幽閉キリシタンたちは、このような像を心に拠り所として密かに信仰を守っていたのでしょう。
 キリシタン寺としての本行寺の姿がだんだんと理解されてきましたね。
 さて、本行寺の裏手には「右近谷」と呼ばれる場所があります。この場所にはかつて右近が主宰するキリシタンの修道所があったのだそうです。右近たちが聖水をとるのに使用していたという井戸の跡もあります。この井戸では、昭和20年のころまで、大変奇妙な民間療法が行われていました。
この地方では古くからフグを食べる習慣がありました。フグの肝には知ってのとおり猛毒が。時にはこの毒にあたる者がいました。フグの毒にあたったものは、速やかに土中に頭だけを出して埋められ、毒が抜けるまでこの井戸の水をかけ続けられたそうです。そして、この民間療法は右近の南蛮医学に由来するものと言われていたそうです。南蛮医学というのは、思いのほかハードな荒療治のようですねぇ。
続いて、茶室きく亭に目を移しましょう。
きく亭の庭にはキリシタン灯篭がありました。
 そして、きく亭の床の間には高山右近直筆の書状が。細川忠興(ただおき)へ宛てた書状です。「以前、小田原での牛肉の一件は失礼仕った」というのでは、ありませんよ。
細川忠興は、織田家に仕えた勇猛な戦国大名であり、高山右近・蒲生氏郷らとともに「利休七哲」に数えられた茶人であり・明智光秀の娘ガラシャが、この忠興のもとに嫁いたことでも有名ですね。
 「近日出舟仕り候・・・」(近々、出航いたすことになりました。・・・帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる。彼(楠正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。是(私)は、今南海に赴き、命を天に任せて、名を残しましょう。・・・)
 楠木正成の辞世を引用して自らの心中を語っています。マニラへと旅立つ右近が長崎で親友忠興に宛てて書いた書状のこれは草稿か写しだとのこと。
 高山右近が使っていた「南坊」の号がはっきりと読み取れます。こういうのを見ると右近さんが、すぐ間近にいるような不思議な感覚にとらわれますね。この茶室にて、前田利家・利長親子と高山右近たちが語らいながら茶の湯を愉しんだことがあったのでしょうか。内藤如安や宇喜多休閑そして南蛮宣教師らも側に従って、キリスト教の教義、世界地理や天体宇宙の話、西洋の国々の話・・・普段憚られる話題がここでは心置きなく交わされたのでしょう。あるいは、西洋楽器で音楽を奏でることもあったのかも・・・。想像は尽きません。
 この日の茶会では地元で茶道を愛好しておられるご婦人方がおいしいお抹茶を立ててくださいました。皆さん親切な方たちで、大変にお世話になりました。この場をかりまして御礼申します。
 最後に、これはかぼちゃを祀った祠(ほこら)。本行寺には「ぼぶら講」という年中行事が10月にあります。ぼぶらとはかぼちゃのこと、金沢に住むお年寄りや能登の一部の人は、今でもかぼちゃのことをぼぶらと言います。「ぼぶら講」はかぼちゃをお祭りする行事で、西洋のハロウィンのような収穫祭の意味でしょう。金沢では、「ぼぶら頭」というと「だら」という意味だそうです。
 九州でもかぼちゃをぼぶらというそうです。かぼちゃは、カンボジアから日本に伝ったので、カンボジアがなまってかぼちゃという名前で定着した、というのは有名な話ですね。 ぼぶらのほうは、 ポルトガル語でかぼちゃを意味する"アボーブラ Abobra"がなまった言葉だそうです。かぼちゃの日本への伝播を伝える説話としては、漂着したポルトガル船が大友宗麟にその種を献上したのが始まりだという話しが大分に伝わっています。大分では、今でもかぼちゃのことを「ぼぶら」「ぼーぶら」「ぼぶろ」といっています。また、「ぼぶら者」という罵り言葉があるそうです。
 このぼぶら講も南蛮人の足跡と見ておきましょう。
能登のキリシタン寺、本行寺の姿がだんだんと明確になってきたところでいよいよ本題の「隠れキリシタン料理」の紹介に話を進めたいと思います。

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