キリシタン料理を予想するT.
七尾は古くから海洋交易で栄えた町
 私の住む高岡から七尾市へは、先ず北陸本線で金沢へ。ここから七尾線に乗り換えて七尾へと参ります。途中、のどかな駅のプラットホームや田園風景の真ん中に立てられた「ミステリーゾーン能登」「伝説の森モーゼパーク」「モーゼの眠る町押水」「UFOの町羽咋」「宇宙との交信」「UFO饅頭」「キリシタンの里」などの看板が私の目に飛び込んできます。石川さゆりの演歌で盛り上がった能登半島人気をつなぎ留めるものは、どうもこの路線であるようですねぇ。各駅停車ののんびりした旅です。
 さて、ここで隠れキリシタン料理なるものがどのようなものであるか予想してみましょう。今日私たちは12月のクリスマスになると、にわかクリスチャンとなって「聖しこの夜」など歌いながら蝋燭に火をともしフライドチキンにクリスマスケーキなどいただきますが、この類はいかがなものか。
 これは、不正解でしょうね、きっと。
 キリシタンを特徴づける食事と言えば、ミサに使用するパン・葡萄酒が思い浮かびます。これらは、隠れキリシタン料理に登場するのでしょうか。また、大航海時代の日本にもたらされ日本の食文化に根付いた食文化として、天ぷら・ヒロウズ・南蛮漬けなどの南蛮料理やカステラ・金平糖・有平唐・ボーロ・ビスケット・鶏卵そうめんなどの南蛮菓子がありますがこのようなものが含まれているのでしょうか。
てんぷら・ひろうずは日本人の食生活にすっかり溶け込んでいる
金花糖のルーツは南蛮菓子の有平糖
 肉料理はどうでしょう。
 高山右近は牛肉を好んで食べ、知人たちにも牛肉料理をご馳走していたそうですね。以前に、ある近江牛の販売社の方にお伺いしたのでは、「近江牛は大変に歴史の古い食用肉で、彦根藩では、元禄の頃から将軍家に牛肉の味噌漬けを献上をしていました。最初に近江牛を食したのは高山右近です。」と驚くべき証言。その根拠については「残念ながら詳しいことは分からない」とのことでした。
 天下の名ブランド「近江牛」と高山右近とのつながりや如何に――右近さんの牛肉好きが生んだ伝説なのでしょうか、はたまた近江の牛肉業者らの巧妙なセールストークなのでしょうか(失礼!)。また別の機会に考えてみたいものですね。
 高山右近の牛肉説話はまだあります。1590年小田原攻めの陣中での出来事、蒲生氏郷(がもううじさと)・細川忠興(ほそかわただおき)が「今日は、右近殿のところで茶会の後に牛肉をご馳走になるぞ」と右近の茶会に出かけました。そこで右近の見慣れぬ作法を見た二人は「右近殿、大名たるあなたにそのような所作はおかしいでしょう」と笑いながら物言いをつけました。すると、右近さんはかっと怒って、「貴殿らに牛肉はご馳走しませぬぞ!」と出た。蒲生・細川の両名は慌てて謝罪。右近の機嫌はなおって、両人は念願の牛肉をご馳走になったとか。
長岡京市勝龍寺城跡にある細川忠興とガラシャの像、
制作は高岡市の織田幸銅器
 高山右近だけでなく織田信長・豊臣秀吉を始め、戦国時代の大名たちは、牛肉を「わか」と呼んで好んで食べていたそうです。「わか」の語は、ポルトガル語の牛肉VACCAに由来するもの。日本の仏教思想では肉食を忌んでいましたが、南蛮人によってもたらされた肉食文化は、おおいに日本人を喜ばせたようです。ある宣教師が本国に書き送った手紙には「牡牛一頭を買い、その肉とともに煮た米を彼ら日本人に振舞ったところ、皆大変に満足しとても喜んでこれを食べた」とあるそうです。牛肉と米の組み合わせは、いかにも日本人好みですね。ほかほか御飯の上に醤油味の牛肉が載った「吉野家の牛丼」なぞ連想してしまうのは、私だけでしょうか。
 能登の隠れキリシタン料理の中にも、もしかすると牛肉料理があるのかも・・・。
 「牛肉かぁ。とすると、能登牛。悪くないなぁ。」下賎な長兵衛は、急に空腹感が募ってくるのでした。
鶏肉を使って作ってみたじぶ煮
 また、キリシタン由来といわれる料理として、加賀の郷土料理「じぶ煮」があります。鴨肉・ぶりなどに小麦粉をまぶして、すだれ麩・しいたけ・筍・青みの菜とともに醤油と砂糖・みりんのだし汁で甘辛くとろりと煮て,わさびや柚子皮などの薬味を添えた料理ですが、この「じぶ煮」は高山右近ら加賀のキリシタンが、宣教師から教わった南蛮の料理をヒントに考案したものと言われています。肉に小麦粉をまぶして煮るなんていうのは、まったく西洋のビーフシチューなどの手法とそっくり。他の地域の郷土料理には見当たらず加賀地方に独特のものです。
 「じぶ煮かぁ。それも悪くないなぁ。今回の取材は至福の時を過ごせそうだ。」
 さらに加賀には「鯛の唐蒸し」という料理があります。「鯛の唐蒸し」は、人参・ごぼう・きくらげ・しいたけ・筍・ぎんなんなど色とりどりの具材を辛く味付けしておからに加えさらにふんだんに砂糖を加えて甘い味付けにします。それを背開きにした大きな鯛に詰めて大皿の盛り、そのまま蒸し上げた豪華な料理です。金沢の上流家庭の婚礼には欠かせない晴れの日の一品。加賀百万石の殿様のお膝元金沢ならではの豪華絢爛たるお料理です。この料理の由来にも高山右近の名が語られることがあります。すなわち、「鯛の唐蒸しは、長崎から帰った高山右近が加賀に伝えたもの」―――近江牛やじぶ煮の話もそうですが、この鯛の唐蒸しの話にも根拠というものはありません。しかし、聞く者をして「そうかもなぁ」と思わせます。
 西洋の魚料理には、魚のはらわたを除いて中に木の実・大豆・ひき肉・にんにく・香味野菜などの詰め物をし、魚にオリーブオイル・香辛料・白ワインをふりかけてオーブンで焼き上げるという料理があります。「鯛の唐蒸し」はこのような西洋の詰め物料理に極似しているといわれており、南蛮の食文化から受けた影響を指摘されているのです。魚の詰め物料理は、日本料理の中では珍しいものですね。
 富山には残念ながら「鯛の唐蒸し」のような豪華絢爛たる料理は存在しません。しかし、イカの中に、もち米を詰めたり、甘い味付けのおからを詰めたりして煮る料理があります。このイカの詰め物料理だって、スペインなどの家庭料理にはよく似たものがあるのですよ。「イカの詰め物白ワイン煮 calamares rellenos」と言う料理。イカに、細かく切ったゲソ・ひき肉・たまねぎの炒めたものを詰めてフライパンでこんがり焼いた後ワイン蒸しにする料理です。身近な郷土料理の中にも南蛮文化の影響はあるというわけです。また、ベトナムの代表的なごちそうに「イカのひき肉詰め ムック・ドイ・ディット」がありますが、これもよく似ており、豚ひき肉にカニ・きくらげなどを混ぜてよく練りイカに詰めて蒸したもの。イカの詰め物料理の伝播経路を知る思いがします。
いか飯 富山からの移住者が多い北海道でもいか飯をよく食べるおからを詰めることもある。詰め物料理は南蛮文化の影響か?
バイ貝は 越中エスカルゴ?
 「鯛の唐蒸しねぇ。そのものすごいヤツも食べてみたい。隠れキリシタン料理の中に入っていますように、アーメン。」
 鶏肉や卵を食べる習慣なども南蛮食文化の影響だそうですね。今でこそ、鶏肉や卵を誰でも食べますが、かつてそのような習慣は日本になかったのです。福岡県で、唐辛子のたっぷり入った「鶏肉の水炊き」がよく食されるのは南蛮の食文化の影響だと言われているそうです。ここで考えて見たいのが能登の「とり野菜」。能登地方では、唐辛子を利かせた味噌仕立てで、野菜たっぷりの鶏鍋を食べる習慣があるのです。「とり野菜」とは、この鍋のことです。能登半島を旅すると「とり野菜」の看板があちこちのお店で見られますよ。ご当地人気メニューという訳です。さて、高山右近の知行地があったとされる地域と、「とり野菜」が食されている地域はほぼ一致しています。「とり野菜」のルーツはキリシタン料理? 
 農山漁村文化協会「聞書き石川の食事」には、田鶴浜を例に能登の山里の暮らしぶりが紹介されています。石川富山の食文化には珍しくここでは鶏料理が見られます。いろりの灰の中に卵を埋めておいて作る「蒸し焼き卵」、行事のあるときに作る「鶏のおつけ(味噌汁)」、鶏の骨のミンチボール「骨うちのたまり汁」。このような鶏食文化がいつから始まったのかは定かではありませんが、「ルーツは南蛮人の伝えたキリシタン料理にあるのかも」と想像してしまいます。
 「とり野菜ねぇ。じぶ煮や鯛の唐蒸しに比べると地味だけれど、能登の地鶏は美味いと聞く。一度食べてみたいなぁ。」
 パンと葡萄酒はどうでしょう。日本の鎖国以前、長崎ではパンと葡萄酒はともに国産されていたそうです。加賀ではどうだったのでしょう。加賀乙彦著の『高山右近』では、金沢を追放される右近が別れのミサを行うとき、ミサに使用するパンと葡萄酒の代用におにぎりと酒で祈りを捧げるシーンがありました。小説ですのであくまでフィクションでしょうけれど。
 「パンと葡萄酒もいいけれど、長兵衛は酒と握り飯のほうが性に合っているなぁ、味噌汁でも付いているとなお有難いなぁ」
 加賀・能登・富山に残る食文化から、能登のキリシタン料理を予想してきました。南蛮料理の影響を受けた料理などというと長崎の専売特許のように思われますが、北陸の食文化にも南蛮文化の影響と見られるものが多くあるのです。
 しかし、その全ての起源を戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン全盛期に求めるのは安直過ぎると思います。鎖国後の長崎との交易の中から得た調理法の知識も多いのでは? 加賀藩からは、医師・学者・商人たちが、頻繁に長崎へと訪れていました。大都市金沢だけでなく、高岡のような小さな町からも、幕末のころには何人もの人が長崎の地を踏んだことが知られています。そのような人たちによって、長崎の珍しい料理の情報や料理法の知識が、随時北陸にもたらされたものと思います。人の味覚とは、食べ慣れたものを愛する一方で、常に新しいものを求め続けるのですから、長崎からの「最新! 海外お料理情報」は多いに歓迎されたでしょう。そして、明治維新以降の文明開化の時代にも洋風食文化がどんどん日本に入ってきます。400年も前のスペイン人・ポルトガル人との交渉に起因を求めるよりも、後世の食文化移入ほうが大きな影響を持っているに違いありません。
九州大学デジタルアーカイブスより「紅毛人康楽図」
オランダ人を紅毛人といった。楽しそうな長崎出島の食卓風景。
 しかしながら、400年ほども前のキリシタン宣教師たちは南蛮の食文化の伝達を、日本でのキリスト教布教のための重要な手段としていました。すなわち、南蛮の酒やおいしい南蛮料理や甘い南蛮菓子を日本人に与えることによって、また、南蛮の食用植物の栽培法を伝授したり調理の方法を教えたりすることによって民衆の心を掴み、より多くの信徒を獲得しようとしていたのです。それは、キリスト教の教義を伝達する布教活動と表裏一体でした。ですから、キリスト教の国内伝播にともなって日本の食文化は大変革を起こしました。「加賀の醤油はなぜ甘いT」でも触れました砂糖食文化の移入などは、好例でありましょう。 
 日本の伝統食である醤油の誕生が、日本にキリスト教が伝来した時代と一致することもあながち見落とせません。味噌から自然ににじみ出てくる溜まりを抽出する程度の素朴な手段から、原料処理に工夫を加え圧搾・濾過の手段を講じて清澄な液体=醤油を得るようになる一大進歩の背景には南蛮文化の影響があるとも考えられているのです。
 まあ長兵衛のほうは言えば、このようなややこしい議論を他所に、「今日は何を食えるのか。」と、ひとりよがりな予想を続けるのでした。

追記
最近読んだ本に、陶智子著『加賀百万石の味文化』があります。とかく食文化論には文献資料による裏付けが欠如しがちですが、陶さんの著書は近世の料理指南書(手引き書)などの古文書をひも解きながら加賀料理の原像にアプローチしようとしたもの。その意欲的な考察にとても興味をひかれました。その中で、陶さんは加賀料理に南蛮文化がもたらした影響を何点か紹介しておられます。ここでも挙げたじぶ煮・鯛の唐蒸しのほか、「岩魚の骨酒」からたちのぼる炎を西洋料理のフランベを思わせると述べ、また料理膳に鴨そのものを豪快に盛り付ける「羽盛」に異文化を感じ取っておられる点、実に面白く拝読しました。
利家とまつが何を食べていたのか、考える糸口を与えてくれます。


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